悟りと言ったらとても大層なものに感じるが、それと同じようなものである天啓とかアハ体験(不意に分かること)というものがないと寄せは難しい。
とりあえず、悟り、天啓、アハ体験をまとめて「天啓」と言うことにする。
天啓に関する私が好きなこんな話がある。
ある、いわゆる駄目な青年がいて、彼はさっぱりうだつが上がらなかった。
そんな彼が、自分の駄目さ加減に嫌気が差し、「僕って駄目だなあ」とつぶやいたら、近くにいた友人が、
「君は駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」
と言ったのだが、それを聞いて、この駄目青年は、この言葉が忘れられなくなった。
やがて、彼は、優れた人物として知られるようになった。
つまり、脱皮し、成功したのだ。
彼が、「君は駄目じゃない。自分でそう思っているだけ」という言葉で感じたことは天啓である。
天啓にも、大きなもの、小さなものがあるように見えるが、どれも同じである。
大数学者の岡潔は、意味が分からないまま20年間、道元の『正法眼蔵』を座右の書としていたが、ある日突然、『正法眼蔵』の全てが分かったと言う。これも天啓を感じたと言えるだろう。
発明家で能力開発の大家である中山正和も、『正法眼蔵』で同じような体験があったらしい。
小さなものでは、私が子供の時、テレビドラマを見ていて、登場人物が、
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃は無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いんだ」
と言うのを聞いて、やはり天啓を感じたのである。
引き寄せは天啓と同じである。
つまり、意図的に起こせない。
「俺は天啓を得るぞ。さあ、どうやって天啓を得よう」
などと考えて、天啓を得られるものではない。
天啓は、ただ起こるのである。
引き寄せも同じである。
ただ、あえて、天啓や引き寄せを起こす方法があるとすれば、昨日も述べたが、荘子が言う「無為」、つまり、何もしないことだ。
瞑想をすれば、確かに天啓を得やすくなるかもしれない。
しかし、天啓を得るために瞑想をすれば天啓は遠ざかる。
近藤真彦さんのミリオンヒット曲『ミッドナイト・シャッフル』の中に、
現実は 何なのか
真実は 何処なのか
悩むほど 遠ざかる 蒼い星
~『ミッドナイト・シャッフル』(作詞:沢ちひろ、作曲:ジョー・リノイエ)より~
という歌詞があるが、まさにこの通りだ。
この「波むほど」を「求めるほど」とすれば、引き寄せに関してはぴったりだ。
しかし、我々は引き寄せに関して、「どうすれば引き寄せが出来るのか」を知りたがる。
「何もしないこと」「何もしなくていい」では嫌で、「何をしたらいい」を知りたがるのだ。
あえて逆説的に言えば、「何をしたらいいか?」の答が「何もしないこと」なのである。
「何もしないことをする」になってしまうのである。
ここらが知性というものの限界だ。
ところで、今は天啓が得られないような世の中だ。
天啓は、子供が無心に本を読んでいるような時に訪れる。
ところが、今は、「テストで良い点を取るため」「先生に読めと言われたから読んでいる」と、作為的に本を読むようになってしまった。
私は子供の時から、文部省指定みたいな課題図書が大嫌いで絶対読まなかったが、直観的に正しいことをしていたのだと思う。
本というのは、たまたま出逢って、なぜか分からないが興味を持ったというものが良いのである。
人生というのは、何があるか分からないから面白いのに、現代人は、何があるか分かっている人生を選び、何があるか分からない人生を恐れ嫌うのである。
これでは天啓は得られない。
ところが、「感じたことを感じたままにやるのだ」と言ったら、それを本能的欲望のみに従うことと勘違いする馬鹿ばかりなのは、子供の時に感性を叩き壊されているからだ。テストのために読むとか、先の人生を決めるために勉強することを強要されることで感性を破壊されてしまったのである。
学校・・・というよりその支配者が、どうやってテストのために読むといったことを生徒にやらせるのかというと不安を与えることによってだ。
それで、我々は何かしないと不安な人間になってしまい、それを紛らわすために、下らない娯楽をやったり酒を飲むのである。

AIアート663
「みずうみ」
Kay
そこで、わざとらしく希望の光を与えるとしたら「無駄と知りつつやる」ことである。
単に、「無駄なことをする」で良いのだが、ただ「無駄なことをする」と言ったら、「何で無駄なことをするんだ?」と言われるだろう。
つまり我々は、「有益だからやる」に凝り固まっているのだ。
そこで、無駄と知りつつ「無駄なことをやる」のである。
これが、闇の支配者に対する最高の嫌がらせだ。
無駄でさえあれば、何をしてもいい。
丁度、W.B.イェイツの戯曲『カルヴァリー』で、ローマ兵士がイエスに、
「気まぐれでさえあれば、何をしてもいい」
と言ったようなものである。
まあ、念仏とか腕振り運動とか・・・
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)
(2)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院編集)
(3)正法眼蔵(ひろさちや翻訳)
(4)禅と脳(中山正和)
(5)快楽主義の哲学(澁澤龍彦)
(6)鈍感力(渡辺淳一)
とりあえず、悟り、天啓、アハ体験をまとめて「天啓」と言うことにする。
天啓に関する私が好きなこんな話がある。
ある、いわゆる駄目な青年がいて、彼はさっぱりうだつが上がらなかった。
そんな彼が、自分の駄目さ加減に嫌気が差し、「僕って駄目だなあ」とつぶやいたら、近くにいた友人が、
「君は駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」
と言ったのだが、それを聞いて、この駄目青年は、この言葉が忘れられなくなった。
やがて、彼は、優れた人物として知られるようになった。
つまり、脱皮し、成功したのだ。
彼が、「君は駄目じゃない。自分でそう思っているだけ」という言葉で感じたことは天啓である。
天啓にも、大きなもの、小さなものがあるように見えるが、どれも同じである。
大数学者の岡潔は、意味が分からないまま20年間、道元の『正法眼蔵』を座右の書としていたが、ある日突然、『正法眼蔵』の全てが分かったと言う。これも天啓を感じたと言えるだろう。
発明家で能力開発の大家である中山正和も、『正法眼蔵』で同じような体験があったらしい。
小さなものでは、私が子供の時、テレビドラマを見ていて、登場人物が、
「攻撃こそ最大の防御なり。最大の攻撃は無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いんだ」
と言うのを聞いて、やはり天啓を感じたのである。
引き寄せは天啓と同じである。
つまり、意図的に起こせない。
「俺は天啓を得るぞ。さあ、どうやって天啓を得よう」
などと考えて、天啓を得られるものではない。
天啓は、ただ起こるのである。
引き寄せも同じである。
ただ、あえて、天啓や引き寄せを起こす方法があるとすれば、昨日も述べたが、荘子が言う「無為」、つまり、何もしないことだ。
瞑想をすれば、確かに天啓を得やすくなるかもしれない。
しかし、天啓を得るために瞑想をすれば天啓は遠ざかる。
近藤真彦さんのミリオンヒット曲『ミッドナイト・シャッフル』の中に、
現実は 何なのか
真実は 何処なのか
悩むほど 遠ざかる 蒼い星
~『ミッドナイト・シャッフル』(作詞:沢ちひろ、作曲:ジョー・リノイエ)より~
という歌詞があるが、まさにこの通りだ。
この「波むほど」を「求めるほど」とすれば、引き寄せに関してはぴったりだ。
しかし、我々は引き寄せに関して、「どうすれば引き寄せが出来るのか」を知りたがる。
「何もしないこと」「何もしなくていい」では嫌で、「何をしたらいい」を知りたがるのだ。
あえて逆説的に言えば、「何をしたらいいか?」の答が「何もしないこと」なのである。
「何もしないことをする」になってしまうのである。
ここらが知性というものの限界だ。
ところで、今は天啓が得られないような世の中だ。
天啓は、子供が無心に本を読んでいるような時に訪れる。
ところが、今は、「テストで良い点を取るため」「先生に読めと言われたから読んでいる」と、作為的に本を読むようになってしまった。
私は子供の時から、文部省指定みたいな課題図書が大嫌いで絶対読まなかったが、直観的に正しいことをしていたのだと思う。
本というのは、たまたま出逢って、なぜか分からないが興味を持ったというものが良いのである。
人生というのは、何があるか分からないから面白いのに、現代人は、何があるか分かっている人生を選び、何があるか分からない人生を恐れ嫌うのである。
これでは天啓は得られない。
ところが、「感じたことを感じたままにやるのだ」と言ったら、それを本能的欲望のみに従うことと勘違いする馬鹿ばかりなのは、子供の時に感性を叩き壊されているからだ。テストのために読むとか、先の人生を決めるために勉強することを強要されることで感性を破壊されてしまったのである。
学校・・・というよりその支配者が、どうやってテストのために読むといったことを生徒にやらせるのかというと不安を与えることによってだ。
それで、我々は何かしないと不安な人間になってしまい、それを紛らわすために、下らない娯楽をやったり酒を飲むのである。

AIアート663
「みずうみ」
Kay
そこで、わざとらしく希望の光を与えるとしたら「無駄と知りつつやる」ことである。
単に、「無駄なことをする」で良いのだが、ただ「無駄なことをする」と言ったら、「何で無駄なことをするんだ?」と言われるだろう。
つまり我々は、「有益だからやる」に凝り固まっているのだ。
そこで、無駄と知りつつ「無駄なことをやる」のである。
これが、闇の支配者に対する最高の嫌がらせだ。
無駄でさえあれば、何をしてもいい。
丁度、W.B.イェイツの戯曲『カルヴァリー』で、ローマ兵士がイエスに、
「気まぐれでさえあれば、何をしてもいい」
と言ったようなものである。
まあ、念仏とか腕振り運動とか・・・
◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)荘子(そうじ) 1 (中公クラシックス)
(2)現代訳 正法眼蔵(禅文化学院編集)
(3)正法眼蔵(ひろさちや翻訳)
(4)禅と脳(中山正和)
(5)快楽主義の哲学(澁澤龍彦)
(6)鈍感力(渡辺淳一)
