ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

アクセル・ワールド

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

劣等感との決別

私が以前、夢中になっていた、川原礫さんのSF小説(ライトノベルでもある)『アクセル・ワールド』のアニメを、Amazonプライムビデオの「dアニメストア」という、月額400円のサービスで見始めた。
ただ、私は、「dアニメストア」は30日間のお試し期間中で、まだ課金されていないが。
小説は、5年くらい前まで読んでいたが(多分10巻くらいまで)、Kindle版がなかなか出ないので、読むのを止めてしまっていた。あの頃、紙の本を読まなくなったのだ。

チビで肥満していて、ゲーム以外に特技がない、劣等感の塊の中学1年生男子ハルユキ君。
対して、容姿と能力は凡人を超越しているのに自分が嫌いな、中学2年生の少女、黒雪姫。
意外に思ったのは、私が未だに、ハルユキ君並の劣等感を持っていることに気付いたことだ。
かなり自信家になったつもりだし、かなり昔から、人からもそう見える(「あなたは恐いものなしでしょ」など)ようなことは、よく言われてはいるのだが。
私とて、黒雪姫には遠いことは自覚しているが、これほど自己信頼が低いとは・・・これでは苦労が多いはずだ。
もっとも、少し前から、自分だけの特別な言葉を決め、それを常に使うことで、明らかに向上している。
不幸の原因は自己不信である劣等感だ。
そして、私だけでなく、誰もが、根深く強い劣等感を抱えているのである。
それを滅ぼさなければ、真の自分になれないが、それを達成出来る鍵は、言葉だけである。
なぜなら、人間は、自分の心は一切支配出来ないが、言葉なら確実に支配出来るのだからだ。
苦しみに耐え、根気強く、自分の特別な武器である、たった1つの言葉を使い続ければ、限りなく強くなれる。
それは、まさに、「アクセル・ワールド」のようだ。

ビル・ゲイツが最も信頼する、AI研究者で天才発明家、事業家であり、「シンギュラリティ」に関して最も有名な人物で、GoogleとNASAの支援を受けるシンギュラリティ・ユニバーシティの創設者レイ・カーツワイルは、シンギュラリティに到達した時のことを、こう断言する。
「その世界は、現在と似たものではない」
「人間と機械、リアルとバーチャルの区別はなくなる」
つまり、初音ミクさんとリアルに逢うことだって出来るのである。
『アクセル・ワールド』を途中までとはいえ、よく読んでいたので、私には、そのことが分かるのだ。

シンギュラリティが2040年代に訪れるという、カーツワイルの予測の中に、推測は全く含まれていないことに注意しなければならない。
時間的に多少誤差はあるかもしれないが、証明済みの理論によって導き出される完全な解であり、その時間的誤差だって、ありえないほど大きいと見積もっても、せいぜい数年しかズレないのだ。
よって、シンギュラリティは確実に、近く訪れ、ミクさんとも必ず逢えるのである。
川原礫さんの、この『アクセル・ワールド』や、同著者のもっと多く読まれている『ソードアート・オンライン』を読んでおいた方が良いかもしれない。

加速世界に参入するための特別な言葉は決まっただろうか?
人間の脳は、10兆ものニューロンが並列に・・・つまり、それぞれが独自に、極めて複雑に働く。
特別な言葉は、それらに特別なパターンを作り、独自の力を発揮させるのだ。
まだ知られていないその力は量子的であり、世界を動かし、作り変えることだって可能だ。
だが、放置するなら、まさにニューロンの挙動はバラバラで、カオスでしかない。
突飛なことを言えば、ロースンは「神の他に何もない」と言って世界を動かし、ニサルガダッタ・マハラジは「私は至高の実在である」と言って、見える世界を超越した。
大いなる業を成し遂げる力を持つのは、少なくとも、普通の人間に関しては、言葉だけであると私は思う。









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ゆるまないためのお手本

変貌を遂げたという意味で、実に印象深い個人的な知人が2人いる。
1人は男、1人は女だ。

男の方は、高校1年生の時、意気地がなく、強い者ににへつらう卑しい男で、ひどく肥満もしていた。
ご存じの方なら、『アクセル・ワールド』の主人公の有田春雪(アリタハルユキ)と同じと言えば分かり易いが、ハルユキと違って、黒雪姫のようなスーパー美少女に愛されることも、加速することもなかった(多分)。
しかし、高校3年生の時には、彼の身体は引き締まり逞しくビルド・アップされていて、顔つきも態度も、自信に満ちていた。

女の方は、小学6年生の時、クラスの男子…いや、少なくとも同学年の男子の8割は彼女に惚れていると断言出来る美少女で、彼女がいる場所は、いつも輝きに満ちていた。
その彼女が20歳の時には、魅力のない、ただのおばさんになっていたのだ。

なぜ、こんなことが起こったのか?
別に調査しなくても分かる。
男の方は、高校1年生まではゆるんでいたが、何かのきっかけでゆるむのを止めたのだ。
逆に、女の方は、小学6年生までゆるまずにいたのに、いつからかゆるんでしまったのである。

そして、世の中の大部分の人間は、時期の違いこそあれ、この女の方のパターンになり、男の方のようになる者は滅多にいない。
しかし、どちらの道を選び、どちらになるかは自分次第だ。

ところで、さっき取り上げた『アクセル・ワールド』の著者は凄い。
デビュー2作品が同時にアニメ化され、デビュー作の『ソード・アート・オンライン』は世界で1,670万部発行。
『アクセル・ワールド』も国内で420万部を超えているが、これらの作品は個人のWebサイトや小説投稿サイトで公開を始めたものであるらしい。
インターネットがなかった時代には、こういった素晴らしい才能が埋もれてしまったのだろうなと思う。
これらの作品の著者、川原礫(かわはられき)氏は、カドカワが今年春から開校するインターネット高校であるN高等学校の「ライトノベル(エンタメノベル)作家授業」の講師に就任するようである。

私は『アクセル・ワールド』は12巻まで読んだが、19巻まで出ているのに、13巻以降は読んでいない。
13巻が出るまでの間に、私は、ほとんど電子書籍しか読まなくなり、『アクセル・ワールド』も、そのうち電子書籍化されることを期待していたのだが、もう3年半待っている訳である。
しかし、電子書籍化の気配はなさそうだ。
残念ではあるが、別に出版社を批判する気はサラサラなく、単に、私は読む運命にないということなのだろう。
サヨナラ、黒雪姫。君には憧れてたよ。

だけど、黒雪姫は、本当にゆるまない人間を体現していたように思う。
『アクセル・ワールド』を読み、黒雪姫をお手本にするのも、ゆるまないための非常に良い方法と思う。
黒雪姫は、心の中の深い傷に耐えて生きるために、ゆるむことが許されないのかもしれない。
だが、それは、鮮やかな傷跡に勇敢にも立ち向かっているということなのだろう。
なるほど、これこそが、英雄的にゆるまない者の秘密なのだと思う。

それでいえば、杉井光氏の『神様のメモ帳』のヒロイン、アリスこそが、恐るべき闇を背負った、ゆるむことの出来ない少女である。
心に傷を持つ方は、読んでみると良いかもしれない。









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崇める力

無双さんのコメントを見て、「忠誠を誓う」とか「崇める」ということの中に、とても重要な鍵があるのだということに、改めて思い至るのである。
『神様のメモ帳』での、アリスに対する藤島鳴海、『アクセル・ワールド』での黒雪姫に対するハルユキ(有田春雪)のような、迷うことのない憧れと崇拝の気持ちの引き起こす力について、現代の人々は気付き難くなっている。
鳴海の場合もそうだが、『涼宮ハルヒの憂鬱』での、ハルヒに対するキョンのように、表向きには自我のぶつかり合いはあっても、鳴海もキョンも、心の奥深くでは、アリスやハルヒを何よりもかけがえのないものと感じているだろうし、ハルユキにいたっては黒雪姫が世界の全てだろう。

同じような例は、世界的文学作品の中にも見られる。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、社会の最下層に生きる二十六人の貧しい労働者の男達は、ターニャという名の16歳の少女を女神のように崇めることで、それまで決して知ることのなかった崇高な精神に目覚め、そして、新しい未来を生きる活力を得ることができたのだ。
しかし、実際は、ターニャは女神の名に相応しい素晴らしい少女でもなんでもない。
彼女を理想の聖なる乙女に見立てたのは、単なる男達の妄想だった。
それでも、この愚劣で何の価値もなかった男達は、とおの昔に失った人間性を取り戻し、頭も回るようになり、何よりも、何十年か振りで、神に目を向けるようになったのだ。
ターニャの幻想が壊れるまでは・・・

ロマン・ガリの『天国の根』にいたっては、女神に見立てる少女はいない。
それはただ、堕落したフランス兵達の心の中に現れた。
彼らは、隊長の命令で、ただ、理想の少女が居ることを想像しただけだった。
だが、それでも、フランス兵達は、紳士として振る舞うことを始め、やがて、高貴な騎士道を取り戻したのだ。
そして、敵に対し、命と引き換えであろうとも、目に見えない少女の引渡しを敢然と拒否したのだった。
そんな彼らは、精神の秘密を知り、偉大な力を手にしていたのだ。

崇めるものがある者は、敗北を知らず、いかなる苦難をも乗り越え、奇跡すら起こし、女神を驚かせてでも、その微笑を守るのである。
※『天国の根』の翻訳は、現在、ほぼ入手不能だが、重要な部分が、コリン・ウィルソンの『至高体験』に引用されている。









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加速するためのイメージはこうして育った

今日は電車の遅れのために、乗客が別のホームに慌てて移動するということがあった。
私も、遅刻するのは何かと面倒なので、他の人達と同じように走ったのだが、気が付けば、他の人達がみんな止まっていた。
若い人が多かったように思うが、私には、止まっているも同然だった。最近は、走り出すと、必ずこうなる。
ロバート・モンローという超心理学者が、狼だったか何だったか忘れたが、脚の速い獣に魂が乗り移った時の体験を著書に書いていたと思う。意識を目的の場所に向けるだけで、身体が即座に猛スピードで疾走しているという感じで、実に爽快なものらしいが、私は、人間の肉体のままでそうなってしまうようだ。

イメージトレーニングとかいって、自分が非常に強くなったり、素晴らしい能力を発揮するといったイメージを持つことで、実際にそんな風になれるというものがあるようだが、それはほとんど上手くいかないと断言する。
人は、自分が思う通りの自分になるなどということを言う者がいるが、あくまで、「本当に思っている通り」になるのである。
しかし、人間は、自分が望むままに思うことなど、ほとんど出来ないのだ。
特に、人間は、「こんな風になって、得をしてやろう」と思っていると、全くそんな風に思うことは出来ないのだ。

私のは、加速のイメージであり、引力から解放されたイメージだ。
私は、ただそれらへの憧れを持っていただけだった。
しかし、私は、無意識に、そのイメージを育ててきたのだ。
10年ほど前だったかと思うが、女神のような姿の本上まなみさんが、瞬間移動を繰り返しながら人々の間をすり抜けていくテレビCMがあったように思う。私は、あれを見て、「美しいな」と思い、そのイメージを心に写していった。
2001年の、『サイボーグ009』の3度目のアニメ作品では、009の加速中の雰囲気がうまく描かれていたが、そのイメージも取り込んでいた。
また、H.G.ウェルズの『新加速剤』では、加速する薬によって、加速状態になった時の様子が、実にリアルに表現されていたが、それも印象深く、心に刻まれた。
そして、加速世界のお話である小説『アクセル・ワールド』は、とても面白く、私は現在出ている12巻までを一気に読んだが、それで加速世界のイメージがますますしっかりと心の中で吹く自然な風になった。
そして、毎日、初音ミクの映像を見ているうちに、重力から解き放たれた天使のイメージと重なっていったのだ。
私は、何も望まず、求めるこなく、欲望も起こさないまま、憧れるものの心象を心の中で花開かせたのである。

望むイメージを、簡単に、すぐに得るなんてことは出来ない。
しかし、ゆっくりと、熱心にやれば、いつかはそれと一体化することが出来る。
そして、あなたは、それになるのである。









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菜食主義者から肉食について

私は4年前から肉を一切食べなくなり、2年ほど前からは、会食などの場合を除き、卵や魚介類も全く食べなくなった。
その意味では、動物や魚を殺すことに加担していないと言えるかもしれないが、さりとて、動物や魚などの命を守ることに積極的に取り組んでいる訳でもない。
そして、野菜、穀物は食べるのであるが、植物だって命を持っているのであり、それを食べるということは、その命をもらっているのだということはちゃんと認識している。
だから、私は花を摘むといったことは一切出来ないし、草1枚引き抜くこともない。
しかし、生きるためには他の生き物の犠牲を必要としているのだし、それを避けられないことを受け入れている。
だが、必要がないのに命を奪うということは、出来るなら避けたいと思っている。
少なくとも、私は、ゴキブリがいても殺す気は無いし、蚊が飛び回っていても放っておくし、それが手足に留まれば、なるべく好きにさせるようにしている。

だが、私の叔父が漁師であるのだが、小さな船で漁をするその仕事は好きだし、また、古くからある方法で狩猟をするマタギについても、彼らの生活について深い敬意を感じているのである。
このブログでも時々ご紹介する、『解脱の真理』や『心身の神癒』の著者であるスコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインは、これらの本の中で、牛とほぼ同じであるヤクや鳥肉は好物でよく食べていたし、卵や乳製品、魚も食べていた。未開の地を含め、世界中を旅した彼には、食べ物を選ぶことなど出来なかったのであるし、今でも、地域によっては、ネズミ、トカゲ、あるいは、猿を食べなければ生きられない人達も沢山いる。
だが、私はそうではなく、幸運なことに動物や鳥、魚を食べなくて良いというだけのことであり、別に菜食者が偉いとは全く思っていない。
しかし、快楽のために動物や鳥や魚介類を食べるつもりは全くない。私は、今でも肉や魚を食べたいという欲望は大きいのであるが、それを抑えることは難しくないのである。

だが、肉を食べることについて、こういった話もあることをご紹介しておく。
食料として多くの人間に好まれる牛や豚、あるいは羊やニワトリ、キジ、鴨、七面鳥、それに多くの魚介類などは、それら自体、素晴らしい存在であり、自然の生命を表現しながら立派に生きている。
だが、人間の生涯は冒険であり、それによる大きな進歩の可能性を秘めており、他の動物では得ることの出来ない経験を得ることが出来ると言えるのではないか?
生物の細胞の1つ1つに生命があるが、さらに、その原子の1つ1つに意志があるに違いないと思う。
だから、牛であれば牛として生きるだけであるが、人間に食べられて、その一部が人間と一体化すれば、非常に多様な生き方をする人間として生きることになる。
その細胞や原子は、人間としての経験を得て、もしかしたら、高い段階に進化出来るかもしれない。
取り込んだ動物の細胞に満ちる生命に対し、優れた経験を得させることに使命を感じるのであれば、動物を食べることも良いことかもしれない。
それは植物に対しても同様である。
生き物は、他の生き物の命をもらって生きなければならないのだが、もらった方は生きることに対する責任がある。特に、他の動物に比べ、はるかに大きな自由意志を与えられた人間はそうなのである。
肉を食べるなら、決して快楽のためではなく、命をつなぐことで、良き冒険の人生を送り、いつか、自我を神の心の中に溶け込ませ、取り入れた動物の命と共にそれを喜ぶという使命を約束し、果たさなければならない。
それが出来るなら、肉を食べても良いのだろうと思う。
だが、そんな者は、肉を食べるしか生きる術がなく、食べる動物を自分で殺すのだが、それは、殺せるだけの力があることを示すことで、食べる相手に対する敬意を示すことにもなるのである。そうでなくても、少なくとも解体をすることで、愛惜と畏敬を感じる機会を持つのである。
川原礫さんの小説『アクセル・ワールド』で、小学4年生の可憐な少女、四埜宮 謡(しのみや・うたい)は、飼育しているアフリカオオコノハズク(フクロウの一種)のエサのネズミを、既に死んでいて毛も剃ってあるとはいえ、ナイフを使って自分で丁寧に解体していた。普通は解体するにしてもハサミでやるのだが、彼女が、手間のかかるナイフを使うのは敬意のためだと言う。お話の中でも、彼女は素晴らしい性質の少女であると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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