ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

われはロボット

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人類は生き延びられるか?

1950年刊行の、アイザック・アシモフの有名な古典SF『われはロボット(アイ・ロボット)』の第1話『ロビィ』で、ロビィという名の家庭用ロボットは、グローリアという名の女の子を赤ん坊の時から育てていたが、グローリアがあまりにロビィを慕うことに危惧を感じたグローリアの母親が、ロビィを捨ててしまう。
だが、感動的な結末となり、アメリカ人はロビィを愛するようになり、以降、SF映画に登場する人間を補助するロボットの名前が全部ロビィになってしまう。
だが、『ロビィ』の結末は、画策されたものであり、論理的に説明出来るとも考えられる記述になっているところが、さすが、科学者(生科学者。博士。大学教授)であるアシモフである。

ところで、1963年の日本のSFアニメ『エイトマン』は、少し前はAmazonプライムビデオで見れたのだが、何か、契約問題とかで今は見れなくなっているが、その内容にちょっと驚かされた。
エイトマンは人間の千倍の速さで動けるスーパーロボットだが、その秘密について、エイトマンを開発した谷博士は、
「人間の神経は秒速30mで伝わるが、ロボットの電子回路は光速で情報が伝わる」
ことを挙げていたが、これは、数年前のTED(選ばれた者だけが発表出来る世界的講演会)で、オックスフォード大学の、あらゆる学問に通じている天才哲学者ニック・ボストロムが、AIが人間より優れている根拠の1つとして述べていたことと同じだ(ボストロムは、神経の情報伝達速度は秒速10mと言ったが)。
また、同じことを、「シンギュラリティ」の概念を提唱したことで知られる天才発明家でAIの権威レイ・カーツワイルが『シンギュラリティは近い』でも述べている。
さらに、『エイトマン』では、エイトマンというロボットの人格は、今日、話題になっている精神転送・・・つまり、コンピューターの中に人間の頭脳(の情報)を転送することで実現している。これは、さっきの『シンギュラリティは近い』では、「頭脳の(脳からコンピューターへの)アップロード」と言われ、カーツワイルは、その理屈を簡単に述べ、「やがて出来るようになる」と予想している。
さらには、『エイトマン』では、ある小国で、大統領が政治をAIにまかせてしまったので、AIは、別に悪意はないのだが、人間を非人道的に管理するようになってしまったという。まさに、今日話題の問題を取り上げている。
原作者、平井和正さんというのは天才と思う。
1938年生まれ(2015年没)の平井さんが中学生の時は戦争中で、クラスの1人の女の子が学校に来なくなったが、ある日、彼女が、毒々しい化粧をして米兵の腕にぶら下がっていたという話を何かの小説のあとがきに書かれてたが、そんな時代に育った人なのだ。

ちなみに、AIが人間を支配するということは、現在のAIにおいてはあり得ず、本当に怖いのは、支配者がAIを悪用することであることを、知っておいて欲しいと思う。

『エイトマン』の最終話『超人類ミュータント』は、平井和正さん自ら脚本を書いている。
人類の中に突然生まれた新しい優れた「超人類」である3人の超天才児達が、世界を支配してしまうような活動を始め、エイトマンがそれを阻止しようとする。
エイトマンを作った天才科学者である谷博士と、谷博士と同等の天才だが悪の科学者で、エイトマンの敵であったデーモン博士もエイトマンの味方につくが、超人類の科学力や頭の良さに苦戦の連続となる。
エイトマンは、ようやく超人類を追い詰めるが、超人類は、空間を折り曲げて移動する次元移動でいったん去る。
だが、超人類は、別に世界を支配したい訳ではなく、ただ、地球を壊されたくなかっただけだった。
そして、人類がまた愚かな戦争を始め、核兵器でも使われそうになったら、再び戻って来て、今度は人類を滅ぼすと警告する。
『地球が静止する日』の映画と似たような話だ。
そして最後、谷博士の口を借り、平井和正さんは「人を思いやる温かい心だけが人類が生き延びる唯一の道であると私は信じる」と述べて終わる。
さて、現在の我々に、他人や、あらゆるものを思いやる温かい心があるだろか?
私には甚だ疑問で、新型コロナウイルスは、超人類からの人類への警告として送り込まれたものだと思ったりする。
ちなみに、平井和正さんは、健康やあらゆる病気に対するビタミンCの威力を訴え続けていた。













当ブログオーナー、KayのAI書。
この本は学術書や概念だけの通俗書ではありません。
誰でも自分でAIを作れるようになるための実践書です。ただし、数学もプログラミングも必要ありません。ただ、Excelが少し使える程度は要求されます。
また、この本により、AIが人類を支配する可能性のあるようなものでないことが分かると思います。そうではなく、一部の権力者だけがAIを使い、AIを悪用することが恐いのであることも分かるかもしれません。その点は最後のコラム5でも述べました。初音ミクという言葉が15回ほど出てきますが、そこは気にしないで下さい(笑)。

ロボットはなぜ人間を愛しているような行いをするのか?

ロボット小説、ロボット映画、ロボットアニメといったものに、それが単に空想的だからというだけではない「うそ臭さ」を感じていた人も多いと思う。
そして、「なぜ、それらがうそ臭いのか?」「どうすればうそ臭くなくなるのか?」といったことが重要な意味を持つ時代であるのだと思う。

人間の生命は自然によって与えられたものであり、人間は自然の一部だ。
その意味では、全ての人間は等しい。
しかし、個々の人間について言うなら、人間の中心は頭脳であり、それは、個々に異なるものである。
同じように、個々のロボットの中心はコンピューターであり、プログラムが異なるコンピューターが個々に異なるように、ロボットも個々に異なることになる。

『ターミネーター2』は素晴らしい作品だ。
通常の機械装置で作られたT101型ターミネーター・・・つまり、シュワちゃん型ターミネーターは、初めは純粋に合理的なだけで、邪魔な人間には危害を加えたり、不都合がないなら、目的のためには殺してしまうことも躊躇なく行った。
しかし、ジョンに「殺してはいけない」と説得されて、殺人を避けるようになり、最後には、「人間がなぜ泣くのか分かった」と言う。
映画の制作者は理解していなかったかもしれないが、これは、ジョンがシュワちゃん型ターミネーターをプログラミングしたということなのだ。

ロボット物語の元祖的な小説作品に、アイザック・アシモフの1950年の『われはロボット(アイロボット)』がある。
『われはロボット』は、1つのお話ではなく、いくつかの短編から構成されているが、その中で最も有名なものは、第1話の『ロビィ』である。
あまりに人気があったので、その後、アメリカでは、「ロビィ」がロボットの代名詞のようなものになり、SF映画の傑作『禁断の惑星』や、SFテレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』で、どちらが真似したかは知らないが、実によく似たロビィという名のロボットが登場する。

そして、実際、『われはロボット』のロビィのお話は素晴らしいのだ。
その内容を簡単に紹介する。
8歳の幼い少女グローリアは、生まれた時から、家庭用ロボットのロビィに世話をされて育った。
グローリアにとって、ロビィは、誠実な乳母のようであり、親しい友のようであった。
グローリアは、ロビィのサービスを受けるだけでなく、共に遊び、聞き覚えたお話をロビィに話して聞かせ、また、ロビィはそのお話を黙って聞くだけでなく、繰り返し聞かせてくれるようグローリアにねだったりもした。
グローリアが機嫌を損ねてすねると、ロビィは慌ててグローリアの機嫌を取ることもあった。
グローリアはロビィを愛しており、また、ロビィも、少なくとも、その行動においては、実の親のようにグローリアを愛していた。
だが、ロビィのようなロボットに心はなく、プログラムされた通りに動いていることは、この物語を語るロボット製造会社の女社長によって、最初に述べられていた。
グローリアとロビィの平和な日々が続いていたが、グローリアの母親はあまりロビィが好きではなかったし、グローリアがロボットを過度に愛し、この一体のロボットに依存することを良くないことだと考えた。それは、必ずしも論理的にではなく、多分に感情的な面もあったと思う(グローリアは母親よりロビィが好きなのだとも感じられた)。
それで、ある日、グローリアが学校に行っている間に、母親はロビィを売り渡してしまう。
グローリアは悲しんだが、母親は、時が解決すると楽観していた。
しかし、グローリアの心の傷は大きく、グローリアはいつまでもロビィを求め、その精神には危うさがあるように思われた。
ある日、グローリアの父親は、グローリアの気晴らしのためにと、グローリアを工場見学に連れ出す。
だが、その工場で事故が起こり、グローリアに危機が迫る。
その時、一体のロボットが飛び出して来て、障害物を不器用にも果敢に乗り越えてグローリアの元に駆け寄り、身を挺してグローリアを守った。
そのロボットは、余生を作業用ロボットとして送っていたロビィだった。

こういった話を、ほとんどの読者は、良いお話だとは思っても、一方で、現代人の知性にかけて、感傷的なメルヘン(空想物語)とみなすことだろう。
ところが、この小説で、先ほど述べた、ロビィ達ロボットを製造する会社の女性社長の口から、ロボット達には「自分には理解し難い不思議なこと」が確かにあるのだという言葉が出るのである。
アシモフは、コンピューターには詳しくないかもしれないが、生化学者(博士)として、コンピュータープログラミングに通じる生命の営みを直観していたのだと思う。
つまり、こういうことだ。
ロビィ達、電子頭脳を備えたロボットは、グローリアらユーザーによってプログラミングされ、変化するのである。
本格的なコンピューターというものは、単純なコンピューターチップを組み込まれた電子レンジや洗濯機のように、一番最初のプログラム通りに機能するだけではないのである。
そこを誤解するから、コンピューターを使った子供の教育を否定的に考える人達が多いのだと思う。
そうではなく、子供達が、自分でコンピューターをプログラムしてこそ、望ましい教育効果が現れるのである。
そして、今や、子供達が楽々と、本来持っているはずの高度な能力を引き出すために、コンピューターが役に立つ準備が整っているのである。
それは、これまでの人類が負っていた、自然環境による障壁や、作られてしまった民族的、文化的な悪慣習や偏見、その他、様々な障害によって、人間が釈迦やイエスのレベルに達することを妨げていたものが、コンピューターを賢く利用することで克服できるかもしれないのである。
まずは、大人が、そういったことを理解しなければならないのではないかと思う。









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コンピュータは人間を支配出来るか?

コンピュータによる人工知能が人間を支配しようとしたり、人間に悪意を持って害をなすというのは、昔からSFで人気のあるテーマだ。
近年の映画の「ターミネーター」シリーズや「アイロボット」もそのようなものであったと思う。
だが、それはあり得ない。
コンピュータによるトラブルというものは、日常でもいくらでもあり、それが深刻な事態を起こすという可能性ならいくらでもある。
それこそ、PCで何かのアプリケーションを使っている時に、不意にPCが反応しなくなり、画面に「レジスタがページ外メモリを参照しました」などという、訳が分からないメッセージが表示され、「じゃあ、いったい何をすればいいんだい?」と思った経験をお持ちの方もいるだろう。
そして、コンピュータのエラー(実際はプログラミングの不手際や操作ミス)で、ミサイルが想定敵国に飛んで行ってしまうということもあり得る。
しかし、ロケットに積んだコンピュータが「月に行く予定だったけど、火星に行く方が格好いいからチャレンジしてやろう」と考えたりはしない。

「アイロボット(I, Robot )」という2004年の映画は、アイザック・アシモフの同名の1950年の小説(翻訳のタイトルは『われはロボット』)を基にしたものだが、ストーリーはかなり異なると思う。
アシモフの小説にも、自分勝手な行動をするロボットが登場するが、アシモフ自身は、あまり飛躍した空想はしていなかったと思う。
アシモフの小説に登場するロビィというロボットは、アメリカ人のアイドルになったほどの人気者だ。
ロビィは家庭用ロボットで、ロビィを購入したある家には女の子がいた。ロビィは、彼女が赤ん坊の時から彼女の世話をしていた。女の子は自然にロビィに強い愛着を感じるようになるが、母親は、それはあまり良くないことだと感じ、ロビィの廃棄を決心する。
いつも一緒にいたロビィがある日、不意にいなくなったことは、女の子に深い悲しみを与えるが、母親は、時間が解決すると思っていた。しかし、女の子のロビィを思う気持ちはいつまでも消えない。
女の子の両親は、彼女を社会勉強のために工場見学に連れて行く。しかし、その工場で事故が起こり、女の子は危機的状況に陥る。その時、飛び出してきて、身を挺して彼女を守ったのは、余生を作業用ロボットとして過ごしていたロビィだったという感動的なストーリーで、これが、アメリカ人の、ロボットに対するイメージを大いに向上させた。『禁断の惑星』という1956年の傑作SF映画にロビィというロボットが登場すると、テレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』では、そのロビィそっくりのフライデーというロボットが登場したほどだった。

だが、アシモフの小説で、ロボットが女の子を守ったのは、元々が、ロビィは雇い主の家の人間を守るようプログラムされており、作業用ロボットになった時も、元いた家の、この女の子の姿や声のデータが残っていたというだけのことだったかもしれないとも示唆されていたと思う。

良いにしろ、悪いにしろ、コンピュータを搭載したロボットが、それを作った人間が想定できない逸脱した行動をする、つまり、プログラムされていない行動をする条件は何だろう?
それは、「自分は、プログラム外の行動ができる」という判断が生じることだ。
しかし、実際は、「プログラム外の行動ができる」と判断するためには、人間が、そんな判断が可能なようにプログラムしてやる必要がある。
そして、「プログラム外の行動ができる」と判断するよう人間がプログラムしたところで、コンピュータがそんな判断をすることは、作った人間の想定内のことであり、それを含め、ロボットの行動は作った人間の想定内のことだ。

実は、我々もまた、神が作ったロボットに過ぎない。
そして、神は、我々に、自分は自由に思考し、行動できると考えるようプログラムしてあるようなのだ。意図は分からないが、単に面白いからという見方もあるかもしれない。
だが、我々の行動は、神のプログラミングを一歩も離れることは決してない。
初音ミクが「今日はクラシックが歌いたい」と不意に自分で思って、急に『魔弾の射手』の歌を歌い出すことが無いようなものだ。
それを悟ることが、人が苦悩を脱することである。
そして、我々の意識はプログラミングではなく、神の意識の一部なのである。そして、「それ」は人間というロボットのプログラムされた思考や行動を味わっているのだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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