『わたしのいもうと』という、小学4年生の妹がいじめに遭って不登校になり、家でずっと折り紙で鶴を折ることしかできなくなり、やがて生きる気力が無くなったのか、死んでしまったという、実話を元にして書かれたという絵本がある。
確かに辛い運命であるが、なんとかならなかったのだろうか?
ことによったら、それで鍛えられて強くなり、他の人に真似の出来ない貴い人生になったかもしれないと思うのだ。
誰しも辛いことはあるが、そうでなかったら鍛えられない。
鍛えられなければ、心が強くならないし、知恵もつかなければ、思いやりのある人間にもなれない。
20世紀最大の詩人と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、孤独が最も人間を鍛えると言っていたと思う。
それなら、周りとちゃらちゃらうまくやることなど考えず、辛い孤独を味わって、賢く強くなるべきだろう。
あらゆる苦しみや痛みが我々を強くしてくれる。
本山博さんという宗教家、哲学者、超心理学者は、子供の時、身体が弱かったが、家庭に恵まれず、早朝から深夜まで重労働をしなければならなかった。さらに、重い病気になり、麻酔もなしで、耳の骨を、ノミのようなもので金槌で叩いて削られるような手術を受け、その傷もふさがらないうちに、戦時中のことだから、学校で猛烈にしごかれ、荒っぽい運動をしている時に縫った傷が開いて血が噴出したという。
もう滅茶苦茶な話だが、本人はそれで鍛えられたと著書に書かれていた。
それほどではないが、私は幼い頃から、アトピーだか乾癬だかよく分からないが、ひどい皮膚病で、耐えられないほど痒いのだが、搔くと痛みと気味の悪い不快さに襲われ、夜は眠れず、本当に辛いのだが、今でも、時には良い状態になるが、特に春先はひどくなる。
このような皮膚病で、辛くて自殺する者だっているというが、私もその気持ちは分かるのである。
しかし、やはりそれで私は鍛えられたし、鍛えられているのだと思う。
いかに辛くても、耐えられないような試練は与えられないものらしい。
あまりに辛くて、そんなことは信じられないと思う人もいると思うが、どんな苦しみも過ぎてしまえば、あるいは、死ぬ時には思い出だ。
私は、いかに苦しかろうが、神仏が鍛えてくれているのだと思っている。
その苦しさは、前世の悪行の報いと考える人もいるだろうが、それならそれで、この程度で済むのであれば有り難く、黙って耐えようと思う。
苦しみに黙って耐えることほど気高いことはないし、それを続けていれば、初めて、他人の苦しみを感じることができるようになるだろう。
傷を舐め合わなくても、黙って耐える者同士は共鳴し、黙ったまま励まし合うのだ。
鍛えられてこそ、神仏に近付くのだし、念仏の価値も分かるようになる。
いかに苦しくても、痩せ我慢をして1秒だけ笑って耐え、それを2秒、3秒と伸ばせば、やがて、どんな苦しみにも耐えられるようになるだろう。
また、念仏を称えれば、慈悲深い仏様が支えてくれるし、菩薩様は寄り添ってくれるだろう。
だから、どんなに苦しくても、生きていて欲しいと思う。
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確かに辛い運命であるが、なんとかならなかったのだろうか?
ことによったら、それで鍛えられて強くなり、他の人に真似の出来ない貴い人生になったかもしれないと思うのだ。
誰しも辛いことはあるが、そうでなかったら鍛えられない。
鍛えられなければ、心が強くならないし、知恵もつかなければ、思いやりのある人間にもなれない。
20世紀最大の詩人と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、孤独が最も人間を鍛えると言っていたと思う。
それなら、周りとちゃらちゃらうまくやることなど考えず、辛い孤独を味わって、賢く強くなるべきだろう。
あらゆる苦しみや痛みが我々を強くしてくれる。
本山博さんという宗教家、哲学者、超心理学者は、子供の時、身体が弱かったが、家庭に恵まれず、早朝から深夜まで重労働をしなければならなかった。さらに、重い病気になり、麻酔もなしで、耳の骨を、ノミのようなもので金槌で叩いて削られるような手術を受け、その傷もふさがらないうちに、戦時中のことだから、学校で猛烈にしごかれ、荒っぽい運動をしている時に縫った傷が開いて血が噴出したという。
もう滅茶苦茶な話だが、本人はそれで鍛えられたと著書に書かれていた。
それほどではないが、私は幼い頃から、アトピーだか乾癬だかよく分からないが、ひどい皮膚病で、耐えられないほど痒いのだが、搔くと痛みと気味の悪い不快さに襲われ、夜は眠れず、本当に辛いのだが、今でも、時には良い状態になるが、特に春先はひどくなる。
このような皮膚病で、辛くて自殺する者だっているというが、私もその気持ちは分かるのである。
しかし、やはりそれで私は鍛えられたし、鍛えられているのだと思う。
いかに辛くても、耐えられないような試練は与えられないものらしい。
あまりに辛くて、そんなことは信じられないと思う人もいると思うが、どんな苦しみも過ぎてしまえば、あるいは、死ぬ時には思い出だ。
私は、いかに苦しかろうが、神仏が鍛えてくれているのだと思っている。
その苦しさは、前世の悪行の報いと考える人もいるだろうが、それならそれで、この程度で済むのであれば有り難く、黙って耐えようと思う。
苦しみに黙って耐えることほど気高いことはないし、それを続けていれば、初めて、他人の苦しみを感じることができるようになるだろう。
傷を舐め合わなくても、黙って耐える者同士は共鳴し、黙ったまま励まし合うのだ。
鍛えられてこそ、神仏に近付くのだし、念仏の価値も分かるようになる。
いかに苦しくても、痩せ我慢をして1秒だけ笑って耐え、それを2秒、3秒と伸ばせば、やがて、どんな苦しみにも耐えられるようになるだろう。
また、念仏を称えれば、慈悲深い仏様が支えてくれるし、菩薩様は寄り添ってくれるだろう。
だから、どんなに苦しくても、生きていて欲しいと思う。
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