ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

わたしのいもうと

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

苦しみに黙って耐えてこそ、強く賢くなれる

『わたしのいもうと』という、小学4年生の妹がいじめに遭って不登校になり、家でずっと折り紙で鶴を折ることしかできなくなり、やがて生きる気力が無くなったのか、死んでしまったという、実話を元にして書かれたという絵本がある。
確かに辛い運命であるが、なんとかならなかったのだろうか?
ことによったら、それで鍛えられて強くなり、他の人に真似の出来ない貴い人生になったかもしれないと思うのだ。

誰しも辛いことはあるが、そうでなかったら鍛えられない。
鍛えられなければ、心が強くならないし、知恵もつかなければ、思いやりのある人間にもなれない。
20世紀最大の詩人と言われたアイルランドのW.B.イェイツは、孤独が最も人間を鍛えると言っていたと思う。
それなら、周りとちゃらちゃらうまくやることなど考えず、辛い孤独を味わって、賢く強くなるべきだろう。

あらゆる苦しみや痛みが我々を強くしてくれる。
本山博さんという宗教家、哲学者、超心理学者は、子供の時、身体が弱かったが、家庭に恵まれず、早朝から深夜まで重労働をしなければならなかった。さらに、重い病気になり、麻酔もなしで、耳の骨を、ノミのようなもので金槌で叩いて削られるような手術を受け、その傷もふさがらないうちに、戦時中のことだから、学校で猛烈にしごかれ、荒っぽい運動をしている時に縫った傷が開いて血が噴出したという。
もう滅茶苦茶な話だが、本人はそれで鍛えられたと著書に書かれていた。
それほどではないが、私は幼い頃から、アトピーだか乾癬だかよく分からないが、ひどい皮膚病で、耐えられないほど痒いのだが、搔くと痛みと気味の悪い不快さに襲われ、夜は眠れず、本当に辛いのだが、今でも、時には良い状態になるが、特に春先はひどくなる。
このような皮膚病で、辛くて自殺する者だっているというが、私もその気持ちは分かるのである。
しかし、やはりそれで私は鍛えられたし、鍛えられているのだと思う。

いかに辛くても、耐えられないような試練は与えられないものらしい。
あまりに辛くて、そんなことは信じられないと思う人もいると思うが、どんな苦しみも過ぎてしまえば、あるいは、死ぬ時には思い出だ。
私は、いかに苦しかろうが、神仏が鍛えてくれているのだと思っている。
その苦しさは、前世の悪行の報いと考える人もいるだろうが、それならそれで、この程度で済むのであれば有り難く、黙って耐えようと思う。
苦しみに黙って耐えることほど気高いことはないし、それを続けていれば、初めて、他人の苦しみを感じることができるようになるだろう。
傷を舐め合わなくても、黙って耐える者同士は共鳴し、黙ったまま励まし合うのだ。
鍛えられてこそ、神仏に近付くのだし、念仏の価値も分かるようになる。
いかに苦しくても、痩せ我慢をして1秒だけ笑って耐え、それを2秒、3秒と伸ばせば、やがて、どんな苦しみにも耐えられるようになるだろう。
また、念仏を称えれば、慈悲深い仏様が支えてくれるし、菩薩様は寄り添ってくれるだろう。
だから、どんなに苦しくても、生きていて欲しいと思う。









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いもうとの救い方

今朝の記事でも取り上げたが、実話を基に描かれた絵本である『わたしのいもうと』は、最も悲惨ないじめの1つである。
転向してきた小学生の女の子が、言葉に地方訛りがあることで馬鹿にされ、それがきっかけで誰も口を利いてくれなくなり、さらには返事もしてくれなくなる。
給食の食事を渡しても、「きたない」と言って誰も受け取ってくれず、遠足に行っても、誰とも話せず、1日ずっと1人で過ごさなければならない。
やがて、彼女は学校に行かなくなって家に引きこもり、家族とも話をしなくなる。
そして、いつか折り紙で鶴を折るようになるが、それしかしない。いや、できない。
いつか、家族も鶴を折るようになり、折り紙の鶴は増え続けるが、それは何の慰めにもならず、少女は命の炎を消してしまう。
こんな子を、どうやって救えば良いのだろう?

最も根本的で大切なことは、それが彼女の運命であるということだ。
それが運命であれば、どうしようと避けられない。
それを受け入れない限り、決して幸福は来ない。
だが、この小さな女の子が、自分でそのことを理解するのは難しい。
だから、親や、あるいは、少し年上の姉がしっかり勉強して理解しなければならない。

彼女は、なぜ鶴を折ったのだろう?
それは、鶴を折っている間だけは、余計なことを考えずに済むからだ。
もし鶴を折っていなければ、ずっと早く死んでいたはずだ。
可能なら、もっと何かをさせないといいけない。
つまらないことを考える暇な時間は、少なければ少ないほど良い。

だが、やはり最も大切なことは、全ては運命なのだということを受容することだ。
たとえ言葉が訛っていても、うまくやっていける子もいる。
しかし、それができないのが、この女の子の運命だった。
彼女は、そのことで、「自分は駄目だ」と思うべきでない。
彼女の性格が悪い訳でも、無能な訳でもない。ただ、逃れようのない運命だったのだ。
神が決めた運命を、人間がどうこうできたりはしない。
自分の力で運命を変えることができると思う傲慢さが、あらゆる不幸の原因なのだ。

だが、運命を無心に受け入れるコツを掴めたなら、どんな運命だって楽しんでいけるのだ。
そんな人を、どんな人も慕わずにはいられないのだ。
もし彼女が、そういった無為自然を得れば、彼女の周りには人が集まってきて、あらゆる支援が行われるだろう。
年頃になれば、立派な男性は皆、彼女にプロポーズせずにはいられないし、もし彼女が男なら、どんな女の子も、遊びでいいから側において欲しいと泣いて頼むだろう。
もちろん、同性の親友もでき、彼女は秘めた偉大な才能を発揮するようになるだろう。
これが道(タオ)の秘法である。
無論、あなたも、これを楽々と活用し、万物の根源たる道(タオ)と一体化し、世界の王者になるのである。
道(タオ)の秘法は『荘子』で学べる。これを注意深く何度も読むのだ。さらに、『老子』を本当に読めば、運命を楽しむだけでなく、神仙になれる。
これにより、イエスが言った、「苦しむ者は幸い」という言葉が実現するのである。









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自分の額に獣の印があることは自分では分からない

人は自分のことが一番分からないというが、その通りだ。
他人の身体をキリで突き刺して、そのキリをこね回し、相手が苦痛に悲鳴を上げて身悶えする様子をじっと見ながら、自分は良心を大切にする真っ当な人間だと思っているのだ。
そして、その行為の悪さを指摘すると、狂ったような報復に出る。
ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた神託(神のお告げ)である「汝自身を知れ」に学んだように、我々も自分を知らなければならない。

現在は、ハルマゲドン(最終戦争)の世界で、戦いはまず人の心の中で始まるのであり、悪魔は人の心の中に侵入し、速やかに人の魂を喰らって弱め、穢して、その者を自分の手下にしてしまう。その結果は現象世界に現れてくるし、現れている。
悪魔の配下になった人間の額には、獣の印が付けられているという。
こういったことを、最近よく書いているが、同時に、私自身が、悪魔に破れ、額に獣の印を付けられていることも何度か書いた。
すると、「おやおや、Kayさんは負けちゃったのですか?残念ですねえ。では、立ち直るにはこうすればいいですよ」とか、「Kayさんでも負けるのですねえ」といった感じのコメントがかなりあったが(ほとんど公開していない)、そういった上から目線をしたり、他人事のような考え方の者は、とっくの昔に悪魔に魂を食われてしまっているのだ。
また、ハルマゲドンの最中であることを感じ取れないという感覚もまた、悪魔に取り込まれて、直感の力を完全に失ってしまっている証拠なのである。
もし、悪魔に魂を支配されながら、その中に、ほんの一かけらでも、苦しみながらも最終的な侵食に抗っている部分があるなら、自分の状況が理解できるはずなのだ。それができないということは、百パーセント、悪魔の子分に成り下がったということかもしれない。だが、そこまでいくこともないはずだ。ただ、状況は極めて悪いということも確かだ。

実話をもとにした『わたしのいもうと』という絵本がある。
妹は、小学4年生の時にひどいいじめに遭い、学校に行けなくなる。
誰も口を利いてくれないばかりか、返事もしてもらえなくなる。給食当番で、食事を渡しても「きたない」と言って受け取ってくれない。
遠足に行っても、誰とも一言も話さず一日、一人で過ごすしかない。
妹は家でも会話をしなくなり、学校にもどこにも行かずに引きこもる。
やがて、妹は折り紙で鶴を折るようになる。家族もみんな鶴を折り、やがて、妹の部屋は折り紙の鶴で溢れ返る。
しかし、何も変わらない。
家の前では、かつて妹をいじめた女の子達がセーラー服を着て通り過ぎる。セーラー服の少女達は、楽しく快活そうで、何の罪の意識もなく、自分が真っ当な、そして、かなり善良な人間だと思っているし、これからもずっとそう思い、将来、子供でもできたら、「正しい人間のあり方」でも教えるのだろう。
しかし、妹は、やがて命の火が消えてしまう。

だが、実に、彼女達(妹をいじめて後ろめたさのない少女達)はまだマシだったのだ。
ハルマゲドンの世界においては、無自覚に悪を為すだけでなく、悪の衝動が高まり、人が苦しむことをせずにいられなくなる。
会社では、「お前のために言っているのだ」と前置きすることで、心置きなく、相手の抵抗を赦さず、口汚い罵りを浴びせ、見下し蔑んで快感を満喫するのだ。
スマートフォンを見ながら駅などで人ごみの中をノロノロ歩くが、より効果的に迷惑をかけることができる位置の取り方と歩き方で、人々を最も苛立たせることに快感を感じていることを、自分では認めないかもしれない。
タバコを吸いたいからというのもあるが、それよりも、他人に煙を浴びせかけるだけでなく、他人に無理にでも近付いていき、さらに、嫌でも自分に近付いてこざるを得ない状況を作ることを、穢れた心は楽しくて仕方がない。

悪魔が人を操るための虫は、人の心に巣食う。人の心が巣であると同時に美味しい餌なのだ。では、心ごと、それらの虫を葬るのだ。
だが、心は自殺したがらない。だから、そういった試みは成功しない。
唯一残された道は、神の高貴な名を唱え、それで心を満たすことだ。そうすれば、心は消え、悪魔の虫は餌を失って死ぬ。
そして、心が消えた後には、満たされた神の名が響き渡る。神の名が神そのものであることを知る。
神の名は、古代の聖者からの贈り物である。そこには偉大な力を発揮させるプログラムが秘められている。
最も効率的に働く名前を選べば良い。
だが、釈迦の教えが効果を発揮し難い今、力ある名は、おそらく宗教教団としては存在しない弥勒の名だ。
弥勒は、イエスの後のキリストであり、釈迦の後の仏なのである。









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あなたに居場所などない

あなたは、自分が、立場が無いとか、居場所が無いと感じたことがあるだろうか?
自分はここにいるのだが、存在意義とか価値といったものが感じられないといったものだ。
学校でスポーツ部に所属しているが、優れた選手でもなく、レギュラーの座は後輩に取られている。部は、別に自分を必要としていない。
私の従兄は、大学の運動部で活躍していたが、身体を壊して選手が続けられなくなると、雑用に徹し、後輩のためにもあれこれ世話をしてやっていた。格好良いとは言えないが、彼には居場所があった。彼は、人間としては好ましい性質であると思う。実際、社会に出てからも上手くいっている。しかし、誰もが同じように出来るわけではない。
また、こんな人もいる。
会社で、自分は課長で、一応は自分が指示を出すのだが、若い部下が自分の指令に対して、「課長、これはこうした方が良いと思うのですが」と言われたら、確かにその方が良く、「うん、そうだな。良い考えだ。そうしたまえ」と言うしかない。そのうち、誰も自分の指示を聞いていないという状態になり、別に自分がいなくても、課、あるいは、会社には何の影響も無いとしか思えない。今の社会状況では、彼はリストラされても仕方がないだろう。
桑田次郎さん(現在は桑田二郎)の『カワリ大いに笑う』という漫画では、アメリカのCIAや旧ソ連のKGPのように、日本にも諜報組織があるという設定になっている。カワリはその隊員で、リーダーはカントクと呼ばれるおじさんだ。ある時、カワリがテキパキと隊員に指示を出していた。「ダイクは資料を調べてくれ、俺は北海道に行く」という感じだ。ところが、その直後、カントクが「待て」と口を挟み、「ダイクは資料を調べろ、カワリは北海道に行け」と、カワリと全く同じことを命ずる。カワリは「了解!」と言って出発する。見ていた者がいぶかると、カントクは、「いいのだ、命令はワシが出すものなのだ」と平気だ。
このくらい、脳天気だと、人生、平和なものだろうが、現実にこんなことが出来る者も場所もないだろう。

ところで、自分の居場所が無いことの極端な例が、『わたしのいもうと』という絵本にある。
文章は、「私」という一人称で書かれており、その、「私」の妹のお話である。(「私」は姉である)
妹は、小学4年生の時から、学校でいじめを受ける。いじめの方法は、無視という、最も陰険で、この「私」が指摘するとおり、「恐ろしい」手段だ。
妹は、クラスメイトに「きたない」と言われ、給食を配っても受け取ってくれない。やがて、誰も口を利いてくれなくなる。それでも、なんとか相手になってもらおうとしたのだろう。妹の手に、つねられた後が沢山あったという。
やがて、妹は学校にいかなくなる。
その続きもあるので、良ければ読んでいただければと思う。
アニメ『犬夜叉』のオープニングテーマ曲だったV6の『CHANGE THE WORLD』という歌に、「君に出逢えたとき、本当の居場所見つけた」という歌詞があったのを憶えているが、犬夜叉という、妖怪と人間のハーフの少年が、自分の居場所を探して苦闘するのが、この作品のテーマであるようだった。犬夜叉の他にも、妖怪と人間のハーフがいくらか出てくるが、人間界にも妖怪の世界でも受け入れてもらえない。それで、辛い目にあったり、逆に、あまりに非道な存在になったりするのだが、きっと、自分の居場所がないと感じている人は、かなり感情移入できるかもしれない。

人間とはまさに、自分の居場所を求めているものである。
しかし、我々は、いつか、自分の居場所を捨てなければならない。死ぬということではない。人間が一番恐れ、嫌がる状況である、「自分など、居ても居なくてもいい」という状態にならないといけない。
私は、そうあろうとしている。
自殺行為というなら自殺行為である。実際、社会で生きていけないばかりか、生物として存在できなくなる危険があるかもしれない。
だから、だからこそやるのである。
しかし、実際のところを言うなら、最初から我々に居場所はない。
仮の話としておくが、人間は、生まれた時から死ぬまで、何が起こり、自分が何をするかは、寸分変わらず決まっている。
自分の自由意志で動いているつもりだが、そう感じるだけで、実は、自分が何を考えるかまで決まっているのだ。
このあたりのことは『荘子』にも示唆されている。
イエスもまた、「神の意志によらずして何も起こらない。神がそう望まなければ、空の雀1話落ちることはない」と言っていたのである。
ラマナ・マハルシも、「宿命によらずして何も起こらない」と言った。誰かがマハルシに、「私は今、コップをこうやって持ち上げました。これも、あらかじめ決まっていた行為なのですか?」と尋ねると、マハルシは「もちろんだ」と答えた。
もし、これらの聖賢の言うことが本当なら、「私は」「私が」と言っている私、即ち、我々など、居ても居なくても同じである。
なぜ自意識があるのかは別問題とするが、実際、「自分」「私」などというものは無いのではないか?
居場所が無いと本当に分かり、「私」「自分」が消えた時が悟りである。
ラマナ・マハルシもそう言っていたのだと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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