私が以前勤めていた職場に、私が「まるで駄目男」と呼んでいた、とにかく、駄目な30歳過ぎの男がいた。
こう言ったら、
「いるよね!駄目なやつ!」
みたいなことを言う人もいると思うが、そんなレベルの駄目ではない。非現実的に駄目なのだ。
ところが、やはり、こう言っても、
「いますよね。本当に徹底的に駄目なやつ」
と言う人がいると思うが、普通に想像出来る駄目とは全然違うのだ。
いや、実を言うと、私にも想像出来ない。
最も当を得た言い方をするなら、「まるで駄目男は人間ではない」とでも言うしかない。
こう言うと、
「えー!それはオーバーじゃないですか?」
と言いたい人もいるかもしれないが、少しもオーバーではないのだ。
人間が持っているはずの重要なものを持っていない。あるいは、それが壊れてしまっているのだ。
あまり言うと、差別主義者だと思われかねないが、まるで駄目男は本物の異常者で、ある意味、超珍品である。
ところが、一見すると、まともなのだ。
頭が悪いわけではない。むしろ、まるで駄目男は、頭は良い方だったと思う。
ところが、まるで駄目男は、理屈は理解出来るのに、彼の言動は全く理屈に合っていない。

いや、考えていたら、私がおかしくなってきた。
妖怪人間なら、まだ、妖怪が出たら退治出来るが(まあ、出ないだろうが)、まるで駄目男は何の役にも立たない。
どうやれば、ここまで異常なまでの駄目な人間が出来るのか・・・興味と言うより、恐怖を感じる。

ところが・・・
そんなまるで駄目男のことを、そこまで気にし、さらに、見ていてイライラするということは、何のことはない。
私がまるで駄目男なのである。
そして、最近気付いたが、あの時の職場にいた連中は、皆、まるで駄目男であった。
類は友を呼ぶ・・・もちろん、誰も、まるで駄目男を友とは思っていないだろうし、何より、自分がまるで駄目男と同じと思っていないだろうが、結局、皆、「おなじ穴のムジナ」だった。
ただ、まるで駄目男以外は、何か出来るように見えるだけである。
本当は、何も・・・とは言わないが、大したことは出来ない連中だった。

そろそろ本題に入らないとヤバい(笑)。
私は、まるで駄目男を、なんとかしてやろうと思った。
さっきも言ったが、彼は、頭は良いのだから、少々足りない部分があっても、特技があればカバー出来ると思ったのだ。
しかし、特技は決して身に付かないことが分かった。
まるで駄目男は、職業訓練校みたいなところで、ワードやエクセルは習得し、そういったものはちゃんと使えた。
けれども、出来るのは、ソフトを立ち上げ、「これを入力しろ」と言われて渡された紙の内容を、そのまま打ち込むことまでだった。
まあ、子供が書くような日記とか、簡単な調べものをして書くくらいは出来るだろうが、仕事というレベルのことは一切出来ない。

最終的に私は悟った。
これは絶対に本当なのだが、まるで駄目男は、一生、まるで駄目男で、生涯、何も出来ないし、どうやろうが、出来るようにならない。
いかに理不尽で、いかに不思議であろうが、それが事実だ。

さて、そんな人間を、あなたは救えるだろうか?
普通には、絶対に無理だ。
だが、今なら、まるで駄目男を救うことが出来ると分かる。
真言を唱えれば良いのである。
逆に言えば、真言を唱えることでしか救われない。
なぜ、そんなことが言えるのかというと、今では私は理屈で説明出来るが、書けば長いし、そんな理屈に関しては何度も書いたので、ここでは書かない。
そんな理屈より、真言を唱えると救われると言える最大の理由が、私がそうであったからだ。
私とまるで駄目男の違いは、私は真言を唱えるまるで駄目男で、彼は、真言を唱えないまるで駄目男だということだけだ。

私と彼以外に、世の中に、どれだけまるで駄目男がいるのかは分からない。
結構いるような気もするし、ひょっとしたら、全員がそうかもしれない。
そうでないように見える者というのは、単に、そうでないように見えるだけかもしれない。
しかし、それはどうでも良い。
重要なのは、まるで駄目男を救う唯一の方法が真言であるということだ。

まるで駄目男は、普通の道では一生浮かばれない。
これは、普通の人間として生きていくなら、何も良いことはないということだ。
それなら、超能力者、仙人、天狗になるしかない。
これを「諦め」と言うのかというとおかしい気もするが、とにかく、人間としての自分に見切りを付けるしかない。いや、元々人間でなかったと思うべきかもしれない。
つまり、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗・・・といった言い方に抵抗があれば、異次元生命体とでも言えば良いが、とにかく、普通の人間ではない何かになるしかない。
人間を諦めろ・・・この言い方が悪いなら、とにかく、当たり前の人間を諦めないといけない。

だが、あのまるで駄目男は、勧めても、おそらく真言を唱えまい。
そういったところは、妙に常識があるのだ。
「真言を唱えれば超人になる?そんなアホな!」
という、「まともさ」は持っているのである。
だが、それが彼の悲劇であろう。
「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えよと言っても、それを馬鹿にしてくる「世間的賢明さ」はあるのだ。
だが、私は、常識のない蒙昧無知であったから救われた。
しかし、それで言えば、法然や親鸞は、常識のない蒙昧無知であった。
特に親鸞は、「念仏以外には一切何もしなくて良い(これは法然も同じ)」「善いことをしなくて良い、むしろ、善いことをしてはならない」「いくら悪いことをしても構わない」と教えたのである。
なぜ『歎異抄(親鸞の教えを弟子の唯円が思い出して綴った書)』を読むとほっとするのかと言うと、「これなら出来る」、いや、「これしか出来ない」と、心の底では分かっているのだろう。
とにかく、私に関して言えば、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗、あるいは、異次元生命体を目指すしか道はないように思う。