今回は『老子』第47章である。
この章を一言で言えば「ひきこもれ」である。
世の中では、ひきこもることは極めて悪いことであるとされている。
しかし、本当は、ひきこもりこそ、人間の理想の姿である。
あの『バガヴァッド・ギーター』にも、「亀が手足を甲羅の中に引き込む」ようにひきこもれと教えているのである。
そして、ひきこもれば、世の中のことも、天地自然の理も何でも分かり、奥深いことを理解し、いかなることでも成し遂げる。
これは逆に言っても良い。
ひきこもらず、外に行けば行くほど、世の中のことも、天地自然の理も分からず、少し奥深くなると全く理解出来ず、何も成し遂げない。
だが、上のように言うと、世間の人は、
「そんな馬鹿な!ひきこもりには何も出来ないに決まっている」
と言う。
まあ、それは良い。
だが、ひきこもりの者自体が、自分は何も分からず、何も出来ないと思っていることが問題なのだ。
誰かがラマナ・マハルシに言った。
「あなたはなぜ講演会をしないのですか?」
マハルシは答えた。
「私は毎日、演壇に登り熱弁を振るっている」
沈黙以上の雄弁はないのだ。
また、マハルシ以上のひきこもりはいない。
重責を担う政治家や軍人はひきこもることで責務を全うし、偉大な事業家はひきこもることで大きな事業を完成する。
彼らは、見かけは激しく活動しているかもしれない。
しかし、彼らは何もしていない。
身体や心が何をしていようが、それはどうでも良いことである。
また、マハルシは、こう言ったらしい。
「イエスは自分の超能力に気付いていなかった」
まあ、これはおそらく、正確には、イエスは、自分の超能力を気に留めなかった…どうでも良いと思っていたということだろう。
30年以上も前だろうか。
当時、マイクロソフトの社長だったビル・ゲイツは、社長室に5日、ひきこもった。
それをしなければ、かつて、世界一のビッグテック企業であったロータスやノベルが消滅したように、マイクロソフトも、なくなっていたはずだ。
だが、ゲイツはひきこもることで本当の仕事をしたのだ。
これらを、頭で理解しようとしてはいけないし、そもそも、人間の馬鹿な頭に理解出来ることではない。
我々も、本当にひきこもれば分かることだ。
そして、本当にひきこもるには、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
これほどのひきこもりはない。
意思は、胸の中、心の中、意識の中にひきこもり、そして、魂と会合する。
これを喩え、「神殿(身体や心)の中で神(真の自分。全知全能の魂)と食事をする」と言うことがよくある。
「私は誰か?」と自分に問うことが、『バガヴァッド・ギーター』の秘儀、『新約聖書・福音書』の秘儀、そして、『老子』の秘儀を実際に行うことである。
この章を一言で言えば「ひきこもれ」である。
世の中では、ひきこもることは極めて悪いことであるとされている。
しかし、本当は、ひきこもりこそ、人間の理想の姿である。
あの『バガヴァッド・ギーター』にも、「亀が手足を甲羅の中に引き込む」ようにひきこもれと教えているのである。
そして、ひきこもれば、世の中のことも、天地自然の理も何でも分かり、奥深いことを理解し、いかなることでも成し遂げる。
これは逆に言っても良い。
ひきこもらず、外に行けば行くほど、世の中のことも、天地自然の理も分からず、少し奥深くなると全く理解出来ず、何も成し遂げない。
だが、上のように言うと、世間の人は、
「そんな馬鹿な!ひきこもりには何も出来ないに決まっている」
と言う。
まあ、それは良い。
だが、ひきこもりの者自体が、自分は何も分からず、何も出来ないと思っていることが問題なのだ。
誰かがラマナ・マハルシに言った。
「あなたはなぜ講演会をしないのですか?」
マハルシは答えた。
「私は毎日、演壇に登り熱弁を振るっている」
沈黙以上の雄弁はないのだ。
また、マハルシ以上のひきこもりはいない。
重責を担う政治家や軍人はひきこもることで責務を全うし、偉大な事業家はひきこもることで大きな事業を完成する。
彼らは、見かけは激しく活動しているかもしれない。
しかし、彼らは何もしていない。
身体や心が何をしていようが、それはどうでも良いことである。
また、マハルシは、こう言ったらしい。
「イエスは自分の超能力に気付いていなかった」
まあ、これはおそらく、正確には、イエスは、自分の超能力を気に留めなかった…どうでも良いと思っていたということだろう。
30年以上も前だろうか。
当時、マイクロソフトの社長だったビル・ゲイツは、社長室に5日、ひきこもった。
それをしなければ、かつて、世界一のビッグテック企業であったロータスやノベルが消滅したように、マイクロソフトも、なくなっていたはずだ。
だが、ゲイツはひきこもることで本当の仕事をしたのだ。
これらを、頭で理解しようとしてはいけないし、そもそも、人間の馬鹿な頭に理解出来ることではない。
我々も、本当にひきこもれば分かることだ。
そして、本当にひきこもるには、「私は誰か?」と自分に問うことだ。
これほどのひきこもりはない。
意思は、胸の中、心の中、意識の中にひきこもり、そして、魂と会合する。
これを喩え、「神殿(身体や心)の中で神(真の自分。全知全能の魂)と食事をする」と言うことがよくある。
「私は誰か?」と自分に問うことが、『バガヴァッド・ギーター』の秘儀、『新約聖書・福音書』の秘儀、そして、『老子』の秘儀を実際に行うことである。