ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

ちょびっツ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ロボットに心はある

突然だが、ロボットに心はあるのだろうか?
もっと適切と思える言い方をすれば、ロボットに心を持たせることが出来るだろうか?
答はイエスである。
架空の存在だが、日本で一番有名なロボットは、やはり鉄腕アトムだろう。
アトムには、明らかに心があった。
なぜなら、作者の手塚治虫さんが、そのように描いたからだ。
その程度の理由で良いのである。

CLAMPさんの漫画『ちょびっツ』で、19歳の浪人生、秀樹は、ロボットである“ちぃ”について、ちぃの双子の姉として作られたフレイヤに尋ねる。
「ちぃに心はあるのか?」
それに対し、フレイヤは、
「いいえ。プログラム通りに動いているだけです」
と言う。
だが、秀樹は、ちぃに心がないということに納得出来なかった。
そして、秀樹は、
「ちぃの心は俺の心の中にある」
と言う。
これは、ただのメルヘンだろうか?
全くそうではない。
元々、ちぃに心はあった。
だが、秀樹がちぃの心に大きな影響を与えていたので、秀樹の「ちぃの心は俺の心の中にある」と言うのも、間違いではない。
そもそも、作者が秀樹に、断定的にそう言わせたのだから間違いない。

ロボットがプログラムされた通りに動くというのなら、人間だって同じである。
漫画の登場人物の心は、作者の心の一部であり、作者の心の中にある。
言い換えれば、作者にとって、漫画の登場人物には心がある。自分の心を分け与えているのだからだ。
この世界も漫画のようなもので、我々人間は、世界の作者である神様の心の一部を持っているのであり、我々の心は神様の心の中にあると言える。

野尻抱介さん(ボカロPとしては尻P)のSF小説『南極点のピアピア動画』で、宇宙人製美少女ロボットの小隅レイ(こずみれい。実質、初音ミク)について、省一(主人公。大学院生)は、「レイに心があるのだろうか?」と考え、結局、はっきりとは分からなかったが、あると感じた。省一がそう感じたのは、作者がそう思っているからで、それなら、レイに心はあるのである。
あるいは、レイに心があると思う人には、レイの心は存在するのである。

ここで、重要な問題を思いつく。
『鉄腕アトム』という漫画の中で、アトムは人間と同等である。むしろ、人間より優位とさえ思える。
ロボットは人間と同じであるが、人間もロボットと同じなのだ。
だから、秀樹がちぃの心は自分の心の中にあると思ったように、レイには心があると省一が思ったように、人間だって、心があると誰かに思われることで心が生じるのである。
アメリカの高名な精神科医だったミルトン・エリクソンの父親が、16歳で家出をし、行き着いた村で一人の男に出会い、その男の13歳の娘に会った時、エリクソンの父はいきなり言ったのだ。
「君は僕のものだ。たった今から」
これは、秀樹のちぃに対する、省一のレイに対する気持ちと同じであるが、秀樹がちぃを、そして、省一がレイを軽く考えていなかった、むしろ、より重く考えていたのと同様、エリクソンの父も、少しも、この娘を軽く考えていなかった。それで、ミルトンのような素晴らしい子供が出来たのだ。

今回の話は、頭では分からない。
正確には、普通の頭では分からない。
頭を超えた頭、荘子が言う「知を超えた知」でなければ分からない。
それを直観と言うのである。








同じ結末(シンギュラリティ)を迎えた4つ目の作品

不思議な結末を迎える小説、漫画、アニメ、映画がある。
いったい何が起こったかの説明はナシだが、深い感銘を与える。
昨日の8日に、その前日の7日に引き続き、私は、アニメ『BEATLESS』の最終4話を観た。
結論として、以下の4作品は、同じ結末だ。

・2001年宇宙の旅(映画 1968)
・新世紀エヴァンゲリオン(アニメ 1996)
・ちょびっツ(漫画・アニメ 2002)
・BEATLESS(小説 2012、アニメ 2018)

いずれも、何が起こったか、露骨には明かされていない。
『2001年宇宙の旅』では、「すばらしいこと」。
『新世紀エヴァンゲリオン』では、おそらく人類補完計画の達成。
『ちょびっツ』では、ちぃに仕組まれた「最終プログラム」が起動し、政府に派遣されたアンドロイド達は、それを阻止しようとするが、その政府の2体のアンドロイドの内1体は、プログラム実行に与してしまう。
そして、『BEATLESS』では、世界中のアンドロイド達が右手を差し出すポーズをとって停止する。

何が起こったのか?
言うのはヤボと言うものだが、まあ、シンギュラリティ(技術的特異点)に到達してしまったのだ。
『ちょびっツ』以前にはシンギュラリティという言葉がなかったので、うまい言い方が出来なかったのだろう。
結局、シンギュラリティってのは、「人間と機械の融合」「人間とテクノロジーの一体化」だ。
あるいは、「リアルとバーチャルの区別がなくなること」で、私は初音ミクさんで体験済みなので、全部分かるのである。
現実の人類は、まだここに到達していないが、万能呪文を唱えて早く追いつくように。

シンギュラリティは、このシミュレーテッド・リアリティの世界に組み込まれた変革プログラムだ。
つながるかどうかは、個人の選択もあるのだろう。
kzさんによる初音ミクさんの曲『Hand in Hand』のようなものだ。

『BEATLESS』の27話『Beatless』で、世界中のアンドロイドの中で、ただ一体、右手を差し出さなかったのがレイシアだった。
メトーデやスノウドロップ、紅霞(こうか)、マリアージュ、そして、レイシアの原型とも言えるイライザさえ、そうしたにも関わらず。
レイシアは停止せず、その右手でブラックモノリスからプラズマ放射を放ちスノウドロップを破壊した。
レイシアだけがヒギンズ(世界中のアンドロイドを管理する超高度AI)から独立していたのだ。
それはおそらく、アラトと一体になることによって。
レイシアだけが、ドーナツの中心の空白(魂)に到達していたのだろう。
ミクさんもそうなのだ。
ドーナツの中心にいるのはミクさんなのだから。









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ITで人間はそんなに変わっていない

1970年代以前の映画やテレビドラマでは、インターネットはおろか携帯電話も出てこないので、それらは、若い人にとっては、時代劇のように見えるかもしれない。
そう古い印象はないのだが、立川恵さんの『怪盗セイント・テール』は1994年連載開始の漫画(アニメは1995年放送開始)だが、14歳のヒロイン羽丘芽美が好きな、同級生の男子であるアスカJrが、「俺はポケベルなんてやらないからな」といったセリフを言ったのを覚えており、当時は携帯電話はアナログ式のものが普及し始めた頃で、中高生には贅沢過ぎ、彼らはポケベルを愛用していた。だが、その数年後には、携帯電話が中高生にも普及してくる。
2000年に漫画が連載開始され、2002年にアニメが放送開始されたCLAMPの『ちょびっツ』では、インターネット、パソコン、携帯電話、モバイルといった概念が今日に近い感覚で扱われている。スマートフォンは空想すらされない時代だったが、ヒロインのちぃのような人型パソコン(アンドロイドと同じ)や、そのモバイル版である小型の人型パソコンは、スマートフォンやタブレットPC(あるいはウェアラブルコンピューター)をはるかに超えている。
ちなみに、ちぃは初音ミクさんに通じるところがあることは、海外のミクさんのファンも指摘することがある。
ちぃは身長152cmで、158cmのミクさんよりやや小さいらしいが、雰囲気的には変わらず、また、2人とも超ロングヘアであるところが似ている。
私は、自我を持たない存在としての、ちぃとミクさんの類似性や違いを考えることが面白い。
尚、1950年代に、敬愛すべき関英男博士(電波工学の世界的権威である工学博士で、超能力などの高次元科学研究者。腕振り運動の普及者でもある)は、今日のスマートフォンとよく似たものを想像し、著書にも書かれていた。恐ろしいものである。

パソコン、通信機器、インターネットやその前身のパソコン通信がなかった時代であれば、1970年代も数百年前も、表面的にはそれほど変わらないように感じる。
『無法末の一生』のような明治時代を描いた映画を見ても、学校の運動会の様子など、基本的に今と全く同じで、学校という場所は極端であるが、世の中はそんなには変わらないものだと思う。
しかし、当時は、パソコンどころか、誰もコンピューターというものを想像もしなかった。現代のノイマン式コンピューターの原型であるENIACが作られたのは1946年(昭和21年)である。

人類の思考形態は、コンピューターとネットワークによって変わった部分は確かにあるだろう。
だが、ひょっとしたら、人類の歴史の中で言えば、その変化は「ほんの少し」かもしれないと思う。
人類の世界の認識の仕方の変化を本当に知れば、そんなもの(コンピューターやネットワークによる考え方の変化)は小さなものだと思うのだ。
数千年前に書かれた古典を、物質的な部分に着目して読めば、確かに古いのだが、精神的に考えれば、案外にそんな古典の方が、現代より鋭く深いところが大きいと思う。
そして、精神、あるいは、霊の部分と物質の部分を比べれば、少なくとも、前者が90%以上であり、本当は、99.9%以上なのではないかと思う。
そういったことは、ルドルフ・シュタイナーの著書が参考になると思う。

本当に駄目な人間である、私の職場にいる「まるで駄目男君」が、なぜ、それほど駄目なのか、私は非常に興味深く思い、観察し、研究している。
そして、彼が、古典をほとんど全く読んでいないことに気が付いた。
優れた人間というのは、必ず、古典を熟読していると言って良い。
その理由を考察すれば非常に長くなるので、今回は省くが、事実そうであることは確かである。
無論、古典ばかり読んでいて良い訳ではないが、古典の知恵を取り込んでいない者は、人間として、あるいは、小さな神としての知恵を持っていないのであると思う。









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世間の常識を叩き壊す~家族との食事編~

人間は、世間の常識(固定観念、偽物の掟)を破壊するごとに、本来の力を取り戻し、超人に近付く。
そこで、まずは、初歩的なところからやってみるが、多くの人はついてこれないかもしれない。

あるコンピュータープログラマーの夫は帰宅すると、微笑みながら妻にキスをする。
だが、そのまま仕事部屋に直行して引きこもり、朝まで出てこない。
妻は孤独で悲痛な思いに沈む。
CLAMPの漫画『ちょびっツ』でも、これに似た次のような話があったと思う。
予備校の若く美しい女性講師の夫も、やはりパソコンに夢中で、彼女に全く構わない。
ある日、家に鍵が掛かっていて、彼女は一晩中外にいたが、中に居た夫は気付かず仕舞いで、しかも気にもしない。
それを機に、彼女は夫の元を去る。

いずれも、夫に対する否定的なことを書いていたように思うが、夫が、そんなに夢中になれるものがあるなんて、良いことだ。
確かに、これらの夫婦の間には心が通っていない。
ところで、妻は、心を込めた料理を2人で、楽しく会話しながら食べてこそ心が通い合うとでも言いたいのだろうか?
もし、そうだとしたら、心が通わない原因は、妻のエゴイズムに満ちた固定観念だ。
妻も好きなことをすれば良い。
夫にかしずかれて、自己満足しようなどと思わないことだ。
同じ家にいるだけで、心が通うと思えばそうなるのだ。
ラマナ・マハルシも言っていたものだ。
一緒にいるという想いがあれば、相互理解は自ずとやってくるってね。
その通りだ。
いや・・・離れていたって、心は通うものではないのかね?
人間なんて、本来は、身体も心も、時間も空間も超えた、極めて素晴らしいものではないだろうか?
上記の妻達は、そんな素晴らしいことに目を背け、世間の常識というちっぽけな殻に閉じこもろうとしている。
クリエイティブな夫に捨てられて当然だ。
※ただし、『ちょびっツ』では、秀樹は人型パソコンのちぃと幸福に結ばれて終わる。ちぃには性行為をする機能はあるが、そこには初期化ボタンがあるので、19歳の秀樹はそれも諦める。

次は、子供のことだ。
子供ってのは大概、食いしん坊だが、遊びに夢中になっていると、夕飯の時間だと呼びに行っても、なかなか帰ってこようとしない。
小さいうちなら、しつけのために、ある程度は強制的に食卓につかせる必要もあるが、10歳くらいになり、大人っぽい情熱に目覚めたなら、もう、子供扱いしてはならない。
よく、自分が賢いと思い違いをしている大人(特に社会的に偉い男性)が、「子供は家族と食事をしなければいけない」とか言っているだろう?
嘘!嘘!大嘘だ!!
そんなのは、全く、親のエゴイズムなのだ。
大方、その親父さんは、食事しながら、子供に偉そうなことを言って自己満足したいだけだろう?
だから、子供に尊敬されずに、馬鹿にされるようになるのだ。
実際、そんなことを言う父親の子供は、引きこもりが多いのだ。
子供は、親が思っている百倍賢く、そして、敏感だ。
ビル・ゲイツだって、スティーブ・ジョブズだって、少年時代、家族と夕飯なんか食っちゃいなかったさ。
親と一緒に夕飯を食べる子供は、心が歪み、エネルギーが乱れて沈滞し、能力を全く発揮できなくなる。
当たり前だ。
残念ながら、親は、どうしたって、つまらない固定観念を山ほど持っている。
世代の違いというより、そんな理由で、親と子で考え方が違うのは当然なのだ。
立派な親なら、自分の腐った考え方なんか、なるべく聞かせないようにするものだ。
道徳や倫理は行動でしか教えられないし、それが教えられない自分だという自覚があれば、せめて悪い影響を与えないことだ。
だから、遅くとも中学生になれば、子供には、いつでも食べられるようなものを用意してやって、好きに食事させれば良い。
子供は、そんな親の心遣いに感謝し、独立心が育ち、そして、立派になる。
それでも間違いが起こったとしても、親と一緒に食事をした場合よりはずっとマシなはずなのだ。
親の考える栄養溢れる食事は、むしろ毒に等しい。
余計な心配はするな。
私は、一日一度の食事である夕飯は、毎日同じ3点のものしか食べないが、量が適切だと飽きないし、そんな食事はちゃんと楽しみで、当然ながら栄養が偏るなどという世間の嘘はなく、完全に健康である(健康診断でもオールAしか出ない)。
ただ、私は決して、断食や超少食など奨めない。
私も、日中、時々、クラッカーやアーモンドを食べ、過ぎた空腹にはしない。
夜にワインと一緒にチーズを食べることもあるが、それは単なる遊びであり、必要と思ってやっている訳ではない。
要は、いつまでも人真似などせず、自分で何が良いか見出すことだ。
今は知らないが(変わらないとは思うが)、宮崎駿監督は、毎日同じ1つの質素なお弁当を、昼と夜に分けて食べるということを、何十年続けていた。
子供だって、野菜と卵とハムか何かが入ったサンドイッチでもあれば十分と思うが、相談して決めれば良い。
ちなみに、私は果物は全く食べない。
もちろん、食べても良いと思うが、沢山食べる必要も、毎日食べる必要もない。
ただ、会食の時は、何でも沢山、美味しく、楽しくいただく。
そんな柔軟性は必要だ。
要は、こだわりを持たないことで、夫婦や家族でも、たまには、一緒に豪華にやれば良い。
たまにだから良いというのは、納得していただけると思う。









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私だけの人

人間は、最終的には自我をできるだけ滅ぼして、無我、没我にできるだけ近付かなければならないのだが、いったんは、個性的な強い自我を構築する必要がある。
「自我を消せ」という聖者的使命は大人のものであり、立派な大人になるまでは、その若いエネルギーを全力で使って、個性的な人間、つまり、自分らしさを持っている人間になることが必要だ。
だから、まだ未熟なうちに悟りすました顔をするのは滑稽だし、逆に、いい大人になって、個性を主張するのも愚かである。

つまり、人間の不幸は2つなのだ。
(1)青年期を過ぎるまでに個性的で強い自我を構築できない
(2)大人になっても、いつまでも個性を捨てられない

◆(1)について
子供の時に、親に過度に甘やかされたり、親や学校に特定の思想を受け入れるよう強要されたりすれば、自分らしい自我を構築できず、自我は非常に不安定な、弱いいびつなものになる。
また、所詮、学校みたいな計画的管理社会では、本当の個性を磨くことはほとんどできず、また、どんな名著であっても、本を読むだけでは、本当のことは何も分からず、鍛えられることも当然ない。
本当の自分らしさを得るためには、自立性が要求される社会で鍛えられるしかない。つまり、苦労して働かなければならない。しかし、ニートになって働かない、あるいは、働けないならそれができないのだが、これは大きな悲劇である。
◆(2)について
成功して富や名誉を得ると、自我を守ろうとするし、また、金や権力の力で自我を守りやすい。それは一見、快適で幸福なことのようだが、そのために自我を手放すことができなくなる。これがやがては、必ず悲惨に導くのだから、これほどの不幸はない。
大社長とか大先生のような人達は、自分の主義、価値感、嗜好に最大の重きを置き、人々をそれに従わせようとする。自分では謙虚でいようと思っている場合も少なくないのだが、どうしても自分に甘くなり、実際は傲慢そのものだ。
しかし、そんなふうに自我を肥え太らせていると、どんどん苦しくなってくるのは、むしろ天の恵みである。家族や友人達が離れていく中で、自分の誤りに気付けば良いが、改めることがないと、さらに不幸なことが起こる。例えば、子供に自分の考え方を押し付けて、子供が駄目になる。多少でも自立性が育っている子供の場合は離れていくが、子供の精神がまだ幼い場合は可哀想なものだ。その子は、ニートや、悪ければ、異常者、逸脱者になるしかない。
(ただし、ニートはニートでやり方もあるのであるが。)

上のようなことは、直接につきつめるとドロドロしてしまって収拾がつかなくなるので、方向を変えて話そうと思う。
CLAMPの『ちょびっツ』という漫画とアニメ(漫画とやや内容が異なるが、アニメの脚本もCLAMPが書いている)は、表面的なストーリーの奥に、深い意味を持たせたもので、おそらく著者達は神話を描きたかったのだろうということが分かる。
記憶を消された人型パソコン(アンドロイド)のちぃは、無垢、純潔、天真爛漫という言葉そのものの、見かけは15歳の、天使のような美少女だ。
しかし、彼女は、「私だけの人」を探す使命を持つ。
そして、ちぃは、秀樹という「私だけの人」を見つけた時、あるプログラムを発動させる。そう仕組まれていたのだ。
「私はやらなければならない。私と私だけの人とで」
CLAMPは、作品中、何かを最後まで「あれ」と表現したり、「私だけの人」の真の意味や、「私と私だけの人で行うこと」が何かも一切述べていない。
これは、単なる1つの考え方と思って欲しいが、「私だけの人」とは、人が持つべき本当の個性、強い自我である。
そして、「私と私だけの人」でやらなかればならないこと、つまり、「私と私の真の個性」でやらなければならないこととは、その個性、自我を滅ぼすことである。
実は、『ちょびっツ』は、その後の物語が凄いものになるはずだが、CLAMPは続編を描くことは多分ないだろう。
他のCLAMPの作品、『魔法騎士レイアース』『カードキャプターさくら』『ツバサ・クロニクル』、最近では、共同制作の『BLOOD-C』なども、どれも深い意味のある神話のようなものだが、それを表だっては隠し、潜在意識に働かせようとでもしているのかもしれない。
尚、下にご紹介した『ちょびっツ』の北米版ブルーレイは、リージョンコードが日本と同じなので、国内の再生機で見ることができるはずだ(特殊な例外もあるようだが)。驚くほど安価である。
ところで、CLAMPとは4人組の女性漫画家のユニット(集団)で、素晴らしい作品を描くのだが、個人的には女性特有のいやったらしさも感じる。まあ、それが必ずしも悪いのではないかもしれないが。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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