ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

あしたのジョー

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

昭和のスポコン漫画に「素振り」を学ぶ

今も人気がある昭和のスポコン漫画・アニメ『アタックNo.1』の中に、こんな場面があったと思う。
ヒロイン達は中学バレーボールの選手で、大会で輝かしい実績を上げたので、学校は女子バレーボール部専用の素晴らしい練習設備を作る。
ヒロイン達は、自分達は努力して成果を上げたのだからそれも当然と思っていたが、誰かに案内され、他の運動部の様子を見ることになる。
すると、狭い練習場や古い設備で真面目に練習する他のスポーツ部の選手達がいた。
私も、スポット的に何かで見ただけなので、それでどうなったか知らないが、卓球部で、1人の女子選手が、黙々とラケットの素振りをしていた。
それを見て、私は、「カッコええなあ」と思ったものだ。
彼女が選手として成功するかどうかは、おそらく、全く語られなかっただろうが、この素振りを続けていれば、選手としてどうかより、もっと貴重なものを得たに違いない。

やはり今も人気があるボクシング漫画『あしたのジョー』に、こんな話があるのは、よく知られている。
主人公の矢吹丈が少年院の独房に入れられているところに、丹下団平(通称「とっつぁん」)から、左ジャブを指導するハガキが届く。
初めは、そのハガキを破り捨てた丈だったが、あまりの退屈さに気が変わり、そのハガキをつなぎあわせて読む。
「脇を締め、やや内角を狙い、えぐり込むようにして打つべし」
だったと思う。
始めると、やがて丈は夢中になり、何日も1日中やり続ける。
それを見て、私は、「カッコええなあ」と思ったものだ。

森に行きましょうお嬢さん
AIアート159
「森に行きましょうお嬢さん」
Kay


他にも、昔の作品では、たとえば、宮本武蔵を描いた本宮ひろ志の漫画『武蔵』や、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、ヒーロー達が、いかに、単調な繰り返しで強くなったかが描かれていた。
これらの単調な繰り返しを「素振り」と譬えるなら、あらゆることの極意は素振りである。
私のようなプログラマーも、ひたすら良いコードをそのままタイプすることを「写経」と呼び、これが優れた学習法であることを、知っている者は知っている。
一流作家の中にも、ヘミングウェイなどの優れた作品を、ひたすらタイプライターで書き写して修行した者もいるのである。

私は今は、腕振り運動や足踏み四股をひたすら繰り返す「素振り」で、ますます身体は若く強く美しくなり、「私は誰か?」と問う「素振り」で超能力が高まる一方である。








できるだけ単純に

私が、アインシュタインは本当に天才だと信じることが出来る、彼の素晴らしい言葉がある。
それは、
「出来るだけ単純に。ただし、度を超えないように」
だ。
まあ、後半の「度を超えない」も大切ではあるが、まずは、「出来るだけ単純に」であり、その重要さは、いくら強調しても足りない。
この言葉には、もっと深い意味もあるのかもしれないが、今回は、それこそ「ごく単純」に捉える。

『あしたのジョー』というボクシング漫画・アニメは、1968年に連載開始されたものながら、いまだ人気は衰えず、数年前に、昔の漫画の再連載を始めたという話もあった。
原作者は、人間的にはいろいろ問題がありながらも天才作家だった梶原一騎(かじわらいっき。この作品では高森朝雄名義)だ。
梶原一騎には、『巨人の星』や『タイガーマスク』はじめ、歴史的とも言える人気作品が数多くあり、マジな天才なのだと思う。
梶原一騎は、本当に、人間のツボを知っていた。
彼の作品には、美学と言えるほどの「ど単純」の法則がある。
『あしたのジョー』で言えば、多くのファンが、この作品から離れられなくなったエピソードは「明日のためのその1」だろう。
これは、落ちぶれたボクシングトレーナーの丹下団平が、主人公の少年、ジョーこと矢吹丈に、ハガキで、左ジャブ(軽く打つストレートパンチ)の打ち方を教えたものだ。一種の通信教育である。
私は、子供の時に読んだが、書いてあったことを憶えている。
「脇を締め、やや内角を狙い、えぐり込むようにして打つべし」
それを丈がやるのを見て、すぐに自分でやる。子供でも出来る簡単さ、単純さだ。
それでもう、自分は、ボクシングの奥義をマスターした気になり、強くなったように感じるのだ。
『巨人の星』で言えば、ひたすら直球を投げる練習をして、剛速球が投げられるようになればいいのだし、『タイガーマスク』であれば、ブリッジさえすれば、気持ちはタイガーだ(笑)。

もし、これらの漫画を読んだ子供が、本当に、野球やボクシングを習いに行けば、面食らうか、少なくとも、戸惑うであろう。
実際は、梶原漫画のように単純ではないからだ。
しかし・・・一面の真理もあるから、梶原一騎は天才なのである。
梶原一騎自身、こつこつとスポーツをやるような真面目な人間ではなかった。
しかし、喧嘩は本当に強かった。
戦い方のコツを知っていたのだ。
普通、喧嘩に強くなりたくて、格闘技を習いに行くと、(言い過ぎかもしれないが)確実に弱くなる。
昔の極真空手や(今はどうか知らないのでこう言うが)、護身術を専門に教えるようなところではそうではないが、武道というのは、実戦というか、喧嘩の道具ではない。
どういうことかというと、ある喧嘩の達人の本に、見事な指摘があった。
だいたい、こんな感じだ。
「本当の戦いになったら、頭なんて絶対に回らない。多彩な技の練習をしてたって、そんなもの出て来ない。だから、一番単純で効果的な技1つを徹底して練習してるやつが強い。キックなんてやってる余裕はない。複数の敵が相手なら、走り回るのに必死だし、ハイキックなんてもっての他。脚を上げたところを倒されたら、相手が複数なら殺されるだけだ」
実戦武道や護身術では、単純な1つか2つの攻撃を徹底的に鍛え、それが完全にならないと次のことを教えてもらえない。
そして、技にはパワーがないと威力がないが、そのためにも、同じ技を何千回、何万回と繰り返す必要がある。
梶原一騎は、そんなことをよく知っていたし、漫画の読者も、それを直観的に解るので、梶原作品に惹かれるのだ。

人間は、馬鹿なのである。
超単純なことしか、うまくやれないのだ。
そして、我々は別に喧嘩術を修得する必要はないが、引き寄せも同じなのだ。
よく、『なぜあなたの引き寄せはうまくいかないのか』なんて本があるが、その答を言ってしまえば、「やり方が難しいから」の一言だ。
単純なことを、1日中やれば良いだけなのだ。
もう1つ重要な、うまくいかない理由を挙げれば、「やる時間が少ない」だ。
(優秀な人の場合は別かもしれないが、それは私には分からないので、置いておく)
引き寄せの、1つのきれいな模範は、何度も取り上げるが、教育学者、七田眞氏の『奇跡の「右脳」超開運法』にある、ホームレスの男性の話だろう。
彼は、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えた。
ネット上で、これと同じことをやったが駄目だったという話も多いが、それは単に、やった時間が足りないのだ。
このホームレスは、起きている時間は、ずっと唱えていた。
そして、2週間ほどしたら、不意に頭の中に数字が浮かび、その番号でロト6を買ったら一億円当たり、その後、再度やったら、また一億円が当たった。
高名な著者は、これは絶対に実話だと保証している。
やさしい引き寄せの本を1つ選び、全体を読まなくていいから、その中の、単純な方法を愚直にやり続ければうまくいくだろう。








「神の手ゴール」をどう考えるか

正義感がなければ、悪魔に魂を売らないと引き寄せは出来ない。
ところが、子供に正義を裏切ることを教える親や教師が多い。
もちろん、そんな親や教師だって、その親に、正義を教えてもらえなかったのかもしれない。

ダスキンの経営理念の中に、
「自分に対しては、損と得があらば、損の道をゆくこと」
という言葉がある。
「自分に対しては」と書かれていることに、ちょっとにやっとする。
でないと、会社の損になってしまうことを勝手にやってしまう馬鹿がいるからだ。

ただ、私は、「損か得か」ではなく、「正義の道を行く」の方が良いと思う。
そして、正義の道は、大抵、自分に対しては損なものだ。

私が小学2年生の時、テストの採点された答案用紙を見たら、不正解なのに正解になっていたので、私は教師に報告した。
勇気を振り絞ったというよりは、褒められたかったのかもしれないと思う。
しかし、私の報告に、教師はブスっとした顔で、何も言わずに、丸をバツに付け直して減点しただけだった。
そりゃ、賢くない部類に入る生徒に間違いを指摘されたら気分が良くないだろう。
それなら、親に褒めてもらおうと思って、このことを親に言うと、こっちはモロに怒られた(笑)。
完全に馬鹿扱いだった。

そういえば、ちょっと似た、こんな話がある。
有名な宗教家の五井昌久さんが子供の時は、戦争中で、貧しい家が多かった。
そこである時、学校で、今着ているものの他に服がない者に、服が支給されるということがあった。
教師が、「今着ているより他に服がない者は手を挙げろ」と言った時、五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を挙げなかった。
当然、服はもらえない。
五井さんが家に帰って、そのことを言うと、親には怒られ、きょうだいには馬鹿にされた。
そういえば、裕福な家の子も手を挙げていたことを、五井さんは思い出した。
その子は賢く、五井さんは馬鹿だということになるのだろう。

五井さんは最後まで正義を貫いたので、神様に選ばれたようだが、私はそうではなかった。
そして、五井さんには、当然ながら強力な引き寄せの能力があり、切羽詰まった時も、少しも慌てず、実際、必ず必要なものが与えられた。

アルゼンチンの英雄的サッカー選手マラドーナの、伝説的な「神の手ゴール」をご存じだろうか?
敵のゴール前、超人的な5人抜き(5人のディフェンスを次々かわした)の後、マラドーナがゴールを決めたのだが、実は、手でボールをゴールに押し込んでいた。
その時は審判に気付かれずにゴールになったが、後でビデオで見たら、明らかに手で押し込んでいた。
マラドーナが気付いていないはずがないが、もちろん、審判が認めているものを覆しても、誰も褒めてくれないどころか、強い非難を受ける可能性の方が高い。
サッカーは、特に当時は、スポーツではなく戦争である。
戦争に正々堂々などない。
マラドーナが間違っている訳ではない。
だから、後で、手で押し込んだことを指摘されたマラドーナは、おそらく堂々と、「神の手ゴールだ」と言い、この言葉が有名になった。
だが、私は、サッカーが嫌いになった。

野球でも、バッターが、ピッチャーの投球が自分の身体に当たっていないのに、当たったフリをしてデッドボールにすることがある。
それは、称賛はされないだろうが、愉快だと思われることはあっても、「卑怯だ」と非難されることは、まあ、ないと思う。
プロ・スポーツにおいて、勝利は義務であり責任なのであるから、立派とまでは言わないまでも、悪いとは言えないかもしれない。
しかし、どこかモヤモヤとはする(笑)。
すると、こんなことを思い出す。
『あしたのジョー』というボクシング漫画で、超一流ボクサーのカーロス・リベラが、レフェリーに見つからないよう、肘打ちで相手をKOし、矢吹丈は激怒して抗議すると、白木葉子は、
「カーロスだから出来る高等反則よ」
と言い、丈は嫌悪感を見せた。
あの不良少年、丈が、随分、クリーンになったものである。
いや、丈がなぜ怒ったのかは分かる気がする。
カーロスが肘打ちでKOした相手は、実力がカーロスよりずっと下だった。
強い相手なら強い相手で、卑怯だからやってはいけないが、弱い相手にやれば、それは、弱い者いじめだ。
マラドーナだって、もし、子供相手に「神の手ゴール」をやれば、間違いなく悪いことだ。

世の中は厳しく、きれいごとを言っていられない場合もあり。時には、ルールを外れても勝たねばならないこともある。
だが、それも限度がある。
その中でも、弱い者いじめだけはやってはならない。
そして、弱い者いじめをやるような者で、つまようじ1本でも引き寄せられる者はいないのである。








悪の集団のエネルギーの奪い方

正月は駅伝、盆のあたりは高校野球を楽しむことは、それは人の勝手なので別に何も言う気はないが、それで盛り上がっていることを見せ付けてくるような連中には、今でも正直、反吐が出る。
私の親戚にも、「こいつ、絶対に駅伝や高校野球と何の関わりもない」はずなのに、やたら詳しく、活発に語る者が多い。
まあ、気分良く付き合うフリはしてあげるが、「早く帰れ」とか思ってしまうのは否定出来ない。

一方、紅白歌合戦が廃れたのは、駅伝や高校野球ほど強力に国民を洗脳する権力者がいないからだ。
音楽というのは、利権者が沢山出てきてしまい、それらの勢力が潰しあって無害になってきたのだが、野球と駅伝は、それぞれのスポーツ連盟と新聞社のタッグが強力で、テレビや大企業を取り込んで、まだまだ国民をマインドコントロールしまくっている訳だ。
だけど、もういい加減、目を覚ました方がよくない?(「よくない?」は若者の流行の口調で頼む)・・・と呆れる。

人生が楽しくないとか、思いが実現しないと思うなら、駅伝や高校野球を見るなと言う気はないが、過剰な関心を持たないことだ。
その関心・・・つまり、愛を、鳩や亀や烏に向けると良い。
若い人達も、駅伝や高校野球に関心が強い者がまだ多いし、それらに関心がないとしても、スマートフォンの大衆型コンテンツに過剰に関心を注いでいたりする。それもまた、駅伝マニアや高校野球マニアと同じで、心の魔力を発揮することが出来ない原因なのだ。
その理由をバラすと、そういったものは、ある種の集団が、庶民の魔力を吸い上げるためのものなのだからだ。
多くの庶民は、魔力を奪われ続けているのである。それで、元気も生き甲斐もない訳である。

初音ミクさんに関しては、駅伝や高校野球信者に「オタク」と言われるなら大丈夫なのだ。
そうであるなら、悪のグループに大切なエネルギーを吸い取られていないということだからね。
もし、大手の新聞、テレビ、大企業が、ミクさんを絶賛するようになったら、我々ウイザード(魔法使い)は危険である。
魔法力を上げたければ、今朝も書いたが、たとえば、矢吹丈のノーガードの姿勢、別名、龍の首をやることである。
今まで奪われてた分は取り戻すだけである。








ジョーの偉大なポーズ

10回以上世界タイトルを防衛した元ボクシング世界チャンピオンは、自分が世界王者になる試合の前に、相手の世界王者の公開スパーリングを見て、その強さに驚愕し、「こんなやつと戦ったら殺される」と思い、試合当日も相手が恐くて仕方がなく、ゴングが鳴ったら、もう何が何だか分からずに必死で手を出し、気がついたら、相手がマットの上でのびていたと言う。
似た話に、有名な空手家の逸話がある。
戦後、真剣を持った剣の達人と決闘をすることになってしまい、勝つのは不可能だから、手足の1本でも残っていたら相打ちに持ち込もうと思って突進していった後の記憶がないと言う。そして、気がつけば、相手は川原の上でのびていたらしい。
両方共・・・特に後者は、本当の話かどうか疑わしいので実名は挙げないが、全くの嘘というのではなく、自分のそれなりの経験を、やや盛った(大袈裟に脚色した)のではないかと思う。

もっと面白い話がある。
物理学者で合気道家の保江邦夫さんが、挑戦されてフルコンタクト空手(実際に相手を殴る蹴るの攻撃をする空手)の猛者と戦った時、右目と左目で別のものを見るという、ヨッパライのような目で向かっていくと、簡単に勝てたが、普通の目付きで行ったらボコボコにされたと言う。
そこで、右目と左目で違うものを見るゴーグルをつけさせると、合気道の初心者が達人になってしまったらしい。
もう1つ、保江さんが言っていたのは、相手を愛すると必ず勝つということだ。
きれいな女性ならともかく、ごっつい空手の強者を愛するのは難しいが、愛さないとボコボコにされるので、なよっとしながら愛すると、やっぱり勝ってしまうらしい。保江さんは60もとおに超えたオッサンだから、考えると気持ち悪いが、そこは引っかからなくていいだろうし、60もとおに超えて強い現役空手家に勝つのだから大したものだ。

しかし、それで言うなら、保江さんが『神様ののぞき穴』で書かれていた「龍の首」で行けば勝てないかと思う。
龍の首とは、猫背になって首を前に倒し顔を上げた、あるいは、アゴを上げたとも言える姿だ。
画像で見たければ、「あしたのジョー ノーガード」で検索したら、そんなのがいくらでも出てくるが、力石徹のノーガードも、素晴らしい龍の首だ。
保江さんが言うには、龍の首だと神様の視点になるので、きっと無敵だ。
だから、皆さんは、何かあったら、矢吹丈のノーガードを思い出して真似ると良いだろう。
ところで、『あしたのジョー』の、おそらく最後のページの、リングのコーナーで椅子に座り、微笑んだ顔で死ぬジョーの姿は、「あしたのジョー 真っ白な灰」で検索したら、大半違法かもしれないが沢山出てくる。あのジョーの姿で顔を上げたら、完璧な龍の首と思う。
ちばてつやさんは偉大な絵を残されたと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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