自発的に何か1つのことに打ち込み、寝食を忘れてそれに打ち込めば仙人や大師になる。
そんなことを昨夜書いた。
だが、坂本龍一さんのように、3歳の時からみっちりピアノを弾いたのは、やっぱり自分の意思ではなく、親の意思で、坂本さんは「やらされた」ことになる。
しかし、坂本さんは、早いうちから、ピアノが好きだったのか、なんらかの折り合いをつけたのかは知らないが、自主的にピアノを弾くようになったのだろう。
坂本さんの親も、そう誘導するのがうまかったのかもしれないが、作為的な誘導ではそうはいかない。
だが、いずれにしろ、坂本さんは、自分の意思でピアノに打ち込んだのと同じになったのだと思う。

もっと極端な例がある。
小説『ベン・ハー』は、これまで7回も映画を主とした映像作品が公開されたが、2016年の映画で面白い場面がある。
主人公の青年ユダは、貴族から奴隷に転落し、ガレー船(人力と帆で進む軍用船)を漕がされた。手足は鎖でつながれ、逃げられないばかりか、船を沈められたら、ユダら奴隷の漕ぎ手達も船と運命と共にするしかない。
奴隷達は、毎日長時間、強制的に漕がされたが、ユダは、それすら、自分の意思でやるようになったのだと思う。
だから幸運が味方し、自由の身になることが出来た。
そして、旧友メッサラとの、命をかけた戦車競走対決で、勝負を決めたのは、ガレー船で鍛えられたユダの「引く腕力」だった。
ユダは他の奴隷と違い、自分の意思で漕いだので、偉大な力を得た。

私も詳しくは知らないが、ウィリアム・バトラー・イェイツが書いたと思われる『アラブ人への3つの手紙』という手記がある。
その中に、賢者として知られる、あるアラブ人が登場する。
そのアラブ人は神だった・・・というか、神のようなものだった。
彼は豊かな商人だったが、家を盗賊に奪われる。
その後、家族を殺される。
彼は財産を捨て召使いになるが、病気で死期が近付く。
そんな悲劇のたびに、彼は「喜びの歌」を作り、幸福に生きた。
彼もイスラム教徒であったかもしれないが、それなら「全ては神の思し召し」と考えたのだろう。
しかし、彼は、1つのことで、他のイスラム教徒とは違っていた。
それで彼は神になった。
それは誰でも出来る。
それは、「全ては神の思し召し」であると共に、「自分の意思」と見なすのだ。
するとどうなるか?
全て、自分の意思で起こるのだから、自分が神であることが成り立つのである。

どんな状況であろうが、それが自分の意思であると見なすのである。
だが、それが本当なのだ。
あなたは神である。
その悟りに導く言葉が「完璧だ」である。
神は完璧であり、ものごとは完璧に起こっている。
全て自分の意思と見なすことで自分が神であるという自覚が深まれば、状況を自在にコントロールすることも可能だが、最初のシナリオを全うする方が楽しいかもしれない。
いずれにしろ、支配権はわが内にあり、自分は世界最強なのだから、不安はなくなる。それに、後悔は元々ない。








  
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