改めて思うと、一番偉かったのは法然であると思う。
法然の教えを難しく言う「センセー」がいっぱいいる。
法然の教えは、『選択本願念仏集』に込められていると思われるが、この本を難しく解説したがるエゴの強い人が多いのだと思う。
法然の教えは、むしろ、彼の遺言である『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』という、文字通り、一枚の紙に書かれたものだ。
しかし、『選択本願念仏集』も『一枚起請文』も、書かれていることはただ1つ。
「念仏しろ」
である。
法然の教えは他に何もない。
ところで、『選択本願念仏集』には、なぜ念仏を唱えることが良いのか書かれている。
私は、そこに書かれていることは、全部、「こじつけ」と思う。
法然は『選択本願念仏集』を、世話になっている人の要請で書いたが、その中に、「読んだら捨てよ」と書いている。
なぜそう書いたかを、当時は念仏が幕府に禁止され、こんな書が発見されたら、世話になっている人に危害が及ぶからと言う人がいるが(この見解が一般的かもしれない)、私は、法然は、やっぱりこれは意味のないこじつけだと分かって書いたのだと思う。
正直、今の時代に念仏は無理がある。
なぜ無理があるかというと、葬式用になってしまったからだ。
それに、宗教の手垢もつき過ぎた。
だが、別に念仏でも良い。
しかし、唱えるのは、念仏でなくて何でも良く、それで法然の意図に合うのだと思う。
たとえば、「神様の奇跡が起こる」でも「お金がある」でも全く同じである。
法然の弟子で一番名高い・・・と言うより、法然より名高いかもしれない親鸞の教えは複雑だった。
「念仏は1回でも良い。いや、唱えようという気持ちがあれば良く、1回も唱えなくていい」
などと言った。
そして、その理由の解釈をまたあれこれ言う人達がいっぱいいて困るのだ。
確かに、親鸞には親鸞の想いがあったのだろう。
しかし、そんな曖昧な難しいことを言っても、庶民には分からない・・・どころか、学者や僧の間でも見解が分かれているではないか?
いったい何のための教えだバカヤローと言いたい(笑)。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」を呪文にしてはいけないと言ったらしい。
それで、マハルシ本人が言ったのかどうかは分からないが、「私は誰か?」の意味をあれこれ言う人達がいっぱいいて、「私は誰か?」がつまらないものになってしまった。
呪文で良いのである。
そして、マハルシも「私」という言葉をずっと唱えろと、呪文を奨めているのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、現代(と言っても19世紀だが)に出現したイエス・キリストは「他のことは忘れて良い」として、「神という言葉を出来るだけ多く使え」と言ったらしい。
だが、著者のベアード・T・スポールディングは、やっぱり「神を呪文にしてはいけない」と書く始末だ。
呪文で良いんだ。
だが、イエスもまた「このことを公式にしてはいけない」と、これまた曖昧な抽象的なことを言ったことになっている。
もし、本当にそんなことを言ったのなら、やっぱり余計なことだと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で、ロンドンのロースン(ローソン)という男が、「There is nothing but GOD(神の他に何もない)」と唱えることで奇跡を起こす場面がある。
ロースンが、この言葉を呪文のようにしていたとは書かれていないが、私は呪文で良いと思う。もちろん、日本人なら「神の他に何もない」あるいは「ただ神だけがある」と唱えれば良い(『ヒマラヤ聖者の生活探求』では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と翻訳している)。
また、この本の中では、「生命、愛、平和」という言葉が起こす奇跡についても書かれている。
何でも良いのだ。
良い言葉なら・・・いや、良いと思う言葉なら。
お金が好きなら「富」とか、ロリコンなら「聖なる乙女」とか。もちろん、あくまで一例だが。
「トホカミエミタメ」も「アジマリカン」も良い。
だが、これらの言葉を普及させている者が「この言葉が一番だ」とか「こっちが上だ」と言っていたら、さっさと見放せ。
よく憶えていないが、「トホカミエミタメよりアジマリカンが優れている」とか「トホカミエミタメは南無阿弥陀仏と比較にならないほど威力がある」と述べ、そのしょーもない理由を並べているのを見た記憶がある。
そんなことを言う者は我の塊か、人々を騙して儲けようと思っているだけであり、そもそも必要なのは言葉だけだ。
私は、今は、今を意識する「今今メソッド」しかしていないが、これも、今を意識するなんて難しいことを言わず「今、今、今・・・」と言っても同じである。そもそも、「今今メソッド」で有名な人も、実は、始まりは、「今、今、今・・・」と言ったことらしい。
理論に関しては、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』という本に書かれている・・・が、しかし、なんてややこしい日本語タイトルを付けるのだろう。原題はシンプルで『The Power of NOW』だ。
そのまま『今の力』でいいじゃないか?
そもそも、この元のタイトルこそ、本の中身を表しているというのに。
タイトルは出版社(徳間書店)がつけたのかもしれないが。
法然の教えを難しく言う「センセー」がいっぱいいる。
法然の教えは、『選択本願念仏集』に込められていると思われるが、この本を難しく解説したがるエゴの強い人が多いのだと思う。
法然の教えは、むしろ、彼の遺言である『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』という、文字通り、一枚の紙に書かれたものだ。
しかし、『選択本願念仏集』も『一枚起請文』も、書かれていることはただ1つ。
「念仏しろ」
である。
法然の教えは他に何もない。
ところで、『選択本願念仏集』には、なぜ念仏を唱えることが良いのか書かれている。
私は、そこに書かれていることは、全部、「こじつけ」と思う。
法然は『選択本願念仏集』を、世話になっている人の要請で書いたが、その中に、「読んだら捨てよ」と書いている。
なぜそう書いたかを、当時は念仏が幕府に禁止され、こんな書が発見されたら、世話になっている人に危害が及ぶからと言う人がいるが(この見解が一般的かもしれない)、私は、法然は、やっぱりこれは意味のないこじつけだと分かって書いたのだと思う。
正直、今の時代に念仏は無理がある。
なぜ無理があるかというと、葬式用になってしまったからだ。
それに、宗教の手垢もつき過ぎた。
だが、別に念仏でも良い。
しかし、唱えるのは、念仏でなくて何でも良く、それで法然の意図に合うのだと思う。
たとえば、「神様の奇跡が起こる」でも「お金がある」でも全く同じである。
法然の弟子で一番名高い・・・と言うより、法然より名高いかもしれない親鸞の教えは複雑だった。
「念仏は1回でも良い。いや、唱えようという気持ちがあれば良く、1回も唱えなくていい」
などと言った。
そして、その理由の解釈をまたあれこれ言う人達がいっぱいいて困るのだ。
確かに、親鸞には親鸞の想いがあったのだろう。
しかし、そんな曖昧な難しいことを言っても、庶民には分からない・・・どころか、学者や僧の間でも見解が分かれているではないか?
いったい何のための教えだバカヤローと言いたい(笑)。
ラマナ・マハルシは「私は誰か?」を呪文にしてはいけないと言ったらしい。
それで、マハルシ本人が言ったのかどうかは分からないが、「私は誰か?」の意味をあれこれ言う人達がいっぱいいて、「私は誰か?」がつまらないものになってしまった。
呪文で良いのである。
そして、マハルシも「私」という言葉をずっと唱えろと、呪文を奨めているのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の中で、現代(と言っても19世紀だが)に出現したイエス・キリストは「他のことは忘れて良い」として、「神という言葉を出来るだけ多く使え」と言ったらしい。
だが、著者のベアード・T・スポールディングは、やっぱり「神を呪文にしてはいけない」と書く始末だ。
呪文で良いんだ。
だが、イエスもまた「このことを公式にしてはいけない」と、これまた曖昧な抽象的なことを言ったことになっている。
もし、本当にそんなことを言ったのなら、やっぱり余計なことだと思う。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』5巻で、ロンドンのロースン(ローソン)という男が、「There is nothing but GOD(神の他に何もない)」と唱えることで奇跡を起こす場面がある。
ロースンが、この言葉を呪文のようにしていたとは書かれていないが、私は呪文で良いと思う。もちろん、日本人なら「神の他に何もない」あるいは「ただ神だけがある」と唱えれば良い(『ヒマラヤ聖者の生活探求』では「神の他に何もない。ただ神だけがある」と翻訳している)。
また、この本の中では、「生命、愛、平和」という言葉が起こす奇跡についても書かれている。
何でも良いのだ。
良い言葉なら・・・いや、良いと思う言葉なら。
お金が好きなら「富」とか、ロリコンなら「聖なる乙女」とか。もちろん、あくまで一例だが。
「トホカミエミタメ」も「アジマリカン」も良い。
だが、これらの言葉を普及させている者が「この言葉が一番だ」とか「こっちが上だ」と言っていたら、さっさと見放せ。
よく憶えていないが、「トホカミエミタメよりアジマリカンが優れている」とか「トホカミエミタメは南無阿弥陀仏と比較にならないほど威力がある」と述べ、そのしょーもない理由を並べているのを見た記憶がある。
そんなことを言う者は我の塊か、人々を騙して儲けようと思っているだけであり、そもそも必要なのは言葉だけだ。
私は、今は、今を意識する「今今メソッド」しかしていないが、これも、今を意識するなんて難しいことを言わず「今、今、今・・・」と言っても同じである。そもそも、「今今メソッド」で有名な人も、実は、始まりは、「今、今、今・・・」と言ったことらしい。
理論に関しては、エックハルト・トールの『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』という本に書かれている・・・が、しかし、なんてややこしい日本語タイトルを付けるのだろう。原題はシンプルで『The Power of NOW』だ。
そのまま『今の力』でいいじゃないか?
そもそも、この元のタイトルこそ、本の中身を表しているというのに。
タイトルは出版社(徳間書店)がつけたのかもしれないが。
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