人間は、なぜ生きようとするのだろうか?
死んだらどうなるか分からないからとか、生きることは凄く重要なことだと思っているから、あるいは、生きるのが楽しいから生きる・・・というのではなく、実は、脳に「生きろ」という命令が与えられているから生きるしかないらしい。
そして、脳に与えられた命令は、「生きろ」だけだという説もある。
自殺する人や、死に場所を求めているという人だって、別に死にたいわけではない。
「死にたい」と言う人だってそうだ。

生きるためには、当然過ぎるが、命が必要だ。
命、生命は、どのように発生したのだろう?
生命が偶然に誕生する可能性は、ほぼゼロで、その喩えとして、「腕時計をバラバラに分解して100mプールにまき散らし、プールの水を動かしたら、偶然に元の腕時計が組み立てられるようなものとか、ゴミ捨て場のゴミを竜巻が巻き上げ、偶然にコンピューターが組みあがるようなものとか、猿がデタラメに紙に黒インクをなすり付けたら、偶然にノーベル文学賞級の小説になるくらい、あり得ないことらしい。
つまり、人間が考える神とは、おそらく、かなり違うだろうが、とにかく、神がいるのは間違いないようだ。
神は、我々の想像の範囲をはるかに超えて万能であり、我々に思いつく程度のことは、いかなることも、健康な若者が腕を曲げたり伸ばしたりするよりはるかに簡単に出来る。
ならば、楽しく生きられるよう神にお願いするのが一番である。
実際、神は、我々1人1人に対応する能力は十分にあると思うが、いくら我々が馬鹿でも、何でも無分別に言うことを聞いてもらえることはないくらいは分かる。
とはいえ、我々の脳に「生きろ」という命令を与えたのはきっと神なので、それに対する責任は取ってくれるはずだ。
そこで、基本的には、生きることに前向きな人には、良い条件を与えるように思われる。
ところが、おかしなことに、命を捨ててかかった時に、人間は奇跡を起こす(神が起こさせる)。
この矛盾に気付き、その理由を洞察出来た者が人間を超えた力を持ち、地上を自由に闊歩する。
なぜ、命を捨ててかかる時、奇跡が起こるのかは、自殺との違いを考えれば分かる。
自殺は、命を無駄にすることだが、命を捨ててかかるのは、命を生かすためだ。
また、怠惰な人生を送ることも、命を無駄にしているのであり、自殺と変わらないか、近いことだ。
美味しいものを食べたり、ゲームをして楽しんだり、色事に興じて喜んでも、命を生かしているとは言えない。
正しく命を生かしている時、幸運に恵まれ、ついでに願いが叶うのだと思われる。

命の生かし方は、考えて分かることではない。
実を言えば、命を生かす準備をしている者に、命を生かす道が用意される。
つまり、エゴを支配する術を身に付け、心身を健康にすることが、その準備になる。
スポーツトレーニングは、競技に勝つためとか、力を自慢するためのものである部分が大きく、必ずしも、心身を健康にしない。
だから、いくらマッチョになっても、命を生かす道が見つからないことが多い。
だが、腕振り運動や、正しい四股といった、心身を真に鍛えることをしていれば、命を生かし易く、その道が開く。
腕振り運動や四股を淡々と行うと、自我を支配する術も得られるので、尚更である。

そんなわけで、今回は、いつも勧める腕振り運動や、佐川幸義流四股をやれば、なぜ運が良くなるかの原理を少し語ってみた。








  
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