個性がないと引き寄せは出来ない。
こんな重要なことが見落とされていることを何度も書いた。
そして、学校やテレビによって、皆、金太郎飴(正式には組み飴。どこで切っても同じ顔の絵になっている)のように同じになるよう洗脳された我々には、正しい個性というものが分からないことも、何度も述べた。
「個性くらい分かるよ」と言う者は、単に、「変わってる」「目立ってる」ことを個性だと誤解している場合が圧倒的だ。

学校でいじめられる子は個性があるからいじめられると言われることがあるが、これは大抵正しくない。
学校でいじめられる子が、「皆と同じであるべきと思われていることで同じでない」とは言えるかもしれない。
例えば、その土地以外の方言を使うとか、外国人やハーフで顔立ちが違うなどである。
そんな子がいじめられるのは、やはり、「皆同じでないといけない」という学校教育のせいである。
とはいえ、そんな違いは個性ではない。

個性とは、量であり、それを作り出す粘り強さだ。
たとえば、腕立て伏せを毎日やっている人は、特に成人では滅多にいないが、1日に10回や20回やっているというだけでは、せいぜい「変わっている」であって個性ではない。
しかし、これが毎日200回なら個性である。
ブランドもののグッズを持っていても個性的ではない。
私もシャネルのコートを着ていたことがあったが(新品で入手したが、裏地にほんの少しの傷があったので、シャネルでは新品商品として売らず、中古商品としてわずか10万円程度で買えた)、もちろん、それによって個性的になったわけではない。
ただ、あらゆるグッズをシャネルに統一している人であれば、個性的と認めざるを得ないかもしれない。そこまでシャネルに思い入れがあるなら、個性的な人間である可能性が高いからだ。

日本人で聖書を読む人は珍しいが(今はアメリカ人でも少ないかもしれない)、1回や2回読んだ程度では個性的ではない。
だが、毎日必ず30分読んでいるというなら個性的である。
フェラーリやランボルギーニに乗っているというだけでは、全く個性的ではない。
だが、これらの車を本当に好きで乗っているなら、個性的な人物である可能性がある。何かを積み重ねた人間でないと、これらの車の本当の良さはわからないからだ。

些細なことでも、自主的に積み重ねれば個性になることがある。
このブログでよく取り上げる、江戸時代、臆病な性格を治すために、毎日、墓地に行ったという町人のように。
昔、私の旧ブログで、腕振り運動を勧めたら、「私は昨日、一万回やりました」とコメントしてきた人がいた。
私は、「大したものだが、1日だけでは意味がない」と返事をした。
気紛れで張り切って頑張る人はよくいるが、それは個性的ではない。
腕振り運動も、1日だけ、あるいは、ごくたまに1万回やっても駄目だが、1日千回を1年365日、決して欠かさずやっているなら個性的である。
ただ、「以前はやっていた」では駄目である。
それこそ、私のように、佐川幸義流四股を毎日やっている者は極めて稀であろうが、1日100回200回程度なら、単に「珍しい人」である。
これも、自主的に毎日千回以上やっているなら個性的と言える。

3年ほど前、私は、若いイラストレーターの優樹ユキさんの個展(初個展)に行ったことがあった。
優樹ユキとは変わったペンネームだが、それを「個性的」と言うのは正しくない。あくまで「変わった名前」と言うのが正しい。それも、ちょっと変わっている程度だ。
私は会場に居た優樹ユキさんに、「子供の時から描いておられたのですか?」と尋ねたら、若くて非常に可愛い優樹さんは感情を込めて、「いつも描いてました」と返事をしてくれた。
これこそが、個性的な人の生き方なのである。

個性とは量であり、それを作り出す粘り強さだということを、私は座右の銘としようと思う。








  
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