江戸末期の神道家、黒住宗忠の弟子の1人が、ある年末に、
「神に全てをゆだねれば、年の暮れも安心である」
といった内容の歌を詠んだ。
すると、宗忠は、
「神に全てをゆだねれば、いつも安心だ」
といった内容の歌を返した。

その通りだ。
神(宇宙意識、宇宙の活力、潜在意識)に全てを完全にまかせ切れば、絶対に安心である。
ただし、本当にまかせ切ることが出来れば。
そして、神に全てをまかせ切るには、強い個性がなければならない。
その原理は、個性がなければ、世間の教義、信条といった、人々の集団意識に飲み込まれるが、集団意識は「自分の力を頼め。神などあてにならない」と言うのだからだ。
集団意識に対抗するには、どうしても、世間に決して従わない強い個性が必要である。

宗忠は、悟りを開いて知った神のことについて、「こんな良いことは、早く皆に教えてやらなければ」と思い、精力的に教えを説き始めた。
しかし、ほとんどの者は救われなかったはずだ。
なぜなら、彼の教えで神のことを信じることが出来るなら、今頃、全ての日本人が幸福になっているに違いないからだ。
神を信じるには、まず、強い個性が必要であることに、宗忠も、他のほとんどの聖者達のように、気付かなかったのだ。
現在でも、良い引き寄せの本は沢山あるのに、ほとんどの者が幸福になれないのは、それらの本には、引き寄せの一応のやり方は書かれているかもしれないが、個性がなければ、そのやり方が力を発揮出来ないことが書かれていない。
書いた者も知らないのだ。
ジェームズ・アレンは、道徳的に善良であれば引き寄せが出来ると考え、ラルフ・ウォルドー・トラインは楽天的であれば良いと考えた。
ヘレン・ケラーも、楽天的であることを重視した。
しかし、それら偉大な人物達の教えは、人々の心を喜ばせたが、力は与えなかった。
神の力を得るためには個性が必要なのだ。
人々の集団意識に打ち勝つ個性が。
それは、現実を見れば純粋にして明晰と思う。

ラマナ・マハルシが言っていたと思う。
人間は、心の海を深く深く潜り、真我という真珠を得なければならないと。
その通りだ。
しかし、心の海を潜るのに、マハルシは「私は誰か?」という想いを重石にしなければならないと言った。
そうではない。
心の海は、世間の教義や信条といった集団意識に満ち、潜ろうとしても押し返される。
「私は誰か?」と問うても、集団意識は、「それは身体だ」「名前だ」「感動する心だ」などと世間的にありきたりなことを言って、潜ろうとする者を拒み、邪魔をするのだ。
我々は、個性という確固とした重みを持たなければ、決して心の奥深くに潜れない。
私は、何か楽しいことに打ち込んで個性を磨き、心の海を深く深く潜ることが出来る重石を得ようと思う。








  
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