引き寄せに関し、基礎をおさらいする。

願望は願った瞬間に叶う。
例外なく、願望の大きさに関わらず、この世界で完全に叶う。
しかし、なぜが、瞬間で元に戻り、願望が叶った記憶もないので、「願いが叶わない」と思う。
そして、なぜ、願望が叶った状態から、叶う前の状態に戻るのかというと、エゴ(自我)が「これはあり得ない」と言い、それを受け入れてしまうからだ。

ここまでは、多少の解釈の違いはあっても、分かっている人は少なからずいる。
しかし、そこまで分かっている人も、エゴに対する対処では、千差万別の異なることを言う。
それは(エゴの対処には万説があることは)、言っている人も気付いている場合があり、そんな人達は、「自分の好きなやり方でどうぞ」とお茶を濁す。

そもそも、エゴが何かについて、フロイトとユングという、ごく身近に居た頭の良い人達の間でも考え方が違い、いまだ、この2者のどっちが正しいかは分かっていない(その他の説も出ている)。
私も、彼らの本を読み、面白かったが、彼らの論は複雑過ぎ、あまり見ない方が良いと思う。
総じて言えば、フロイト論は納得はし易いが矛盾が大きく、ユングの方は神秘的で受け入れ難い場合が多い・・・そんなところである。

しかし、これははっきり言えると思うが、叶った願いが消えてしまうのは、集合意識のためだ。
この集合意識が、テレパシーのように人々の間でつながっているものか、ごく普通のコミュニケ―ションでつながっているものかは、ここでは触れない。意見の相違があるし、どっちでも説明がつくからだ。
願望がつまらないものであれば、集合意識はあまり反対せず、叶った状態を維持する。
しかし、集合意識の常識を超えた願いが叶った場合、集合意識が反発し、叶った状態が消える。
本当は、集合意識に力があるのではなく、自分が集合意識に逆らえるかどうかが問題なのである。

個性のない人間は、集合意識に逆らえない。
そもそも、集合意識に逆らえない者のことを個性のない者と言うのだから。
だから、どれほどの引き寄せのテクニックを知り、それを必死で実践したところで、個性がなければ、集合意識に飲まれて、願望の実現が消えてしまう。
だから、「千万人と雖も吾往かん(せんまんにんといえどもわれゆかん)」と言うだけの個性が必要である。
昔から、この個性のことを「信念」と言う人が多く、「信念を強くしろ」とか言うが、そう言われても曖昧過ぎて困る。
たとえば、合氣道家の藤平光一氏は、毎朝鏡に向かって「お前はますます信念が強くなる」と言ったというが、個性のある彼ならそれで良くても、普通の人がそれを真似ても何にもならない。
大切なことは、「世界で1つだけの花」と言える個性で、それがないと、集合意識に飲まれてしまうのである。

我々は、学校で「前に倣え」と、皆と同じロボットになるよう教育され、テレビや新聞、大企業のCMは、我々が、皆と同じように考え、同じように行動するよう洗脳する。
学校や社会で、それ(学校やテレビを通じた権威者の論理)に従わないと辛い目に遭うので、ほとんどの者が「尻尾を巻いて従う」。
テレビは、皆でニコニコ「世界で1つだけの花」を歌ってハッピーになろうと言って、「皆、同じ花」にしてしまう。
つくづく、テレビ、新聞、そして、あらゆるCMは見てはいけない・・・と言うより、気持ち悪くて見ていられないようでないとおかしい。

伊達政宗の師であった虎哉宗乙(こさい そういつ)の有名な「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」という言葉も、集合意識に逆らうことの重要性を説いたものと理解しないと意味が分からないのである。
だが、集合意識に逆らうには、個性が必要である。
個性は、好きなことを自主的に毎日やることで作られる。
何度も言ったが、「じゃあ、ゲームを」「じゃあ、美食を」「じゃあ、エロを」という馬鹿は論外なので、もう放置で良いと思う。

宮本武蔵がなぜ剣豪の中でも一番魅力的なのかというと、強かったからではなく、一番個性的であったからだ。
そもそも、武蔵は江戸の有名な剣豪と試合をしていないので、どれほど強かったかは本当は分からない。
イエスもまた、個性があるから魅力があるのであり、宗教とは何の関係もないと私は思っている。
とりあえず、彼らについて読んでも良いと思うが、吉川英治の『宮本武蔵』は、国家の思想統制のために書かれたものなのでお奨めしない。
武蔵は、司馬遼太郎にかぎる。








  
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