ようやく完全に腑に落ちた。
斎藤一人さんや心屋仁之助さんらの、「こうやれば必ず成功しますよ」という話を聞いても、誰も成功しない。
それで、斎藤さんらも、果て無く次々に本を出し、講演会も開いて、新しいネタを考えて話をするが、それでも、それで実際に良くなった人はいないのだ。
いや、そもそも、膨大な数が出ている引き寄せや成功哲学の本は、ロングセラーを続けるようなものは、ほとんどが素晴らしいものである。
しかし、それらを読んで成功した人は1人もいない。
私も、全く駄目な者に、それらの本を読ませ、多くが熱心に読んでいたが、やっぱり、何も変わらないのである。

その理由が分かった。
必要なのは、たった1つ。
「光る個性」である。
これがない・・・何の特徴もない、平凡な人間では、何をやったところで駄目なのだ。
ただし、親とか親戚とか、仲の良い友達といった、いつもちゅらちゃらくっついている者に、「お前は個性的だ」「お前は凄い」とか言われても、何にもならない。
自分を好きでない人間、最も良いのは、敵である人間に、「お前のような者は他にいない」と言われるようでないといけないのだ。

光る個性があれば、賢者の本を際限なく読む必要はない。
ラマナ・マハルシは、「全ての聖典には心を静かにしろと書かれている。それが了解されたら、際限なく本を読む必要はない」と言った。
そして、生涯、彼のように、ふんどし1本あれば満足出来る者になりたいなら、心を静かにすることが大切だと納得すれば良いのかもれないが、世界を動かす力を得るためには、光る個性がないといけない。
その者を嫌う者すら認めざるを得ない、本当の光る個性である。

どこかで聞いたが、ある中学校で、逆立ちで廊下を歩く男性教師がいるらしい。
自分では、何かを自己主張しているつもりかもしれないが、そんな者は、単なる愚か者で、個性的でも何でもない。
そんな馬鹿者は「馬鹿者」と認識しなくてはならない。

光る個性とは、決して、努力をして修得した技術や知識ではない。
それらは、あくまで2次的なもので、悪くはないが、それを自慢し出したら、やはり愚か者なのである。
光る個性は、自分が本当に好きなことを自主的に継続した時に備わるのである。
それなしに、神がその者に特別な力を与える道理などない。
ただ、自分が本当に好きなことであれば、何でも構わない。
もちろん、「じゃあ、美食や酒やドラッグやエロでもいいのか?」という馬鹿は論外である。
まあ、池田満寿夫さんが言うような「洗練されたエロチシズム」ならどうかは知らないが、そんなことをまともに出来るのは天才くらいだろうから、私には分からない。
まあ、下らないことをやって一生を棒に振るのは、その者の勝手だし、芸術家というのは、その覚悟がある者かもしれない。
だが、やりがいのあることなど、世の中にゴマンとある。
その中から自分で選び、自分で始め、自分の力で継続する。

光る個性がなければ、引き寄せの勉強などいくらやっても無駄である、
逆に言えば、光る個性があれば、引き寄せの本を読まなくても、引き寄せは自在であろう。








  
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