自分を愛することを「自愛」と言い、自愛がないと幸福になれないという。
だが、自愛が苦手な人が多い。どうしても自分が好きになれない人だ。
だが、自愛というか、自分が好きでないと、いろんな問題が起こる。
『新世紀ヱヴァンゲリヲン』というアニメは、元々は、シンジという14歳の少年が自愛を手に入れる物語で、最終話の最後の場面で、シンジは独り言をつぶやく。
「僕は自分が嫌いだ」
「でも好きになれるかもしれない」
そう言った時には、既に何かに気付き、自分を好きになりかけているのである。
なぜ、そうなったのかというと、まあ、最終話までにいろいろあったからだろう。
だが、我々は、レイやアスカやミサト、その他の魅力的なキャラクターとはなかなか出会えない。
それで、やっぱり自愛が苦手な人が多く、スピリチュアル界隈で奨められる「私を愛している」なんて言葉は気持ち悪くて言えないという人もいる。
だが、愛とまではいかなくても、自分が好きでなければ、やっぱり、人生は苦しいものになる。
自分が嫌いな原因なんて探っても仕方がないかもしれない。
「いや、それが重要だ」と言う人もいるが、面倒だし、時間がかかるし、そもそも、そんなことやりたくない。
そこで、私はこんなお話を思い出す。
アメリカのある小学校でのお話だ。
ある女性教師のクラスに、問題のある黒人の男子生徒がいた。
生まれた時からスラム街で生活し、家庭環境に問題があるなどというレベルではなかったのだろう。
その生徒は、授業中、ずっと後ろを向いていた。
その女性教師は、この生徒には自愛というものが全くない・・・自分には何の価値もないと思っているのだということが分かっていた。
そこで、この女性教師は、その生徒に、こんな奇妙な指示をした。
「これから、私に何を聞かれても、『それは僕が賢すぎるからです』と答えなさい」
これは、される側にとっても、嫌な指示ではない。
教師は、早速、質問した。
「どうして後ろを向いているの?」
「僕が賢すぎるからです」
「あなたのようなハンサムが後ろを向いているのはもったいないわ」
これで、その生徒は前を向くようになり、後に全米屈指の脳外科医になり、大統領が頭部を狙撃された時、一番に声がかかったのは彼で、そのことはニュースでも報道された。
自愛もやりようなのだ。
もし、その教師が、その生徒に、「『私を愛している』と言いなさい」などと言ったら、その生徒はより屈折したかもしれない。
プロボクシングの歴史で最も有名な選手は、世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリかもしれない。
彼が絶頂期に、日本のどこかの企業のテレビCMに登場したことがあった。
彼は、カメラに向かって、自信たっぷりに、
「I'm prettiest(俺は一番美しい)」
と言ったが、CMの企画というより、彼らしい、実際に、彼が言いそうな言葉だった。
彼はいつも、「俺ほどハンサムで強いボクサーはいない」と言っていたのも確かだ。
彼は、強いより先に、美しいことが重要だったのだろう。
もしかしたら、自分が偉大であることが最も重要だったのかもしれない。
彼は、うまい自愛のやり方を見つけたのかもしれないが、どこか作為的・・・無理矢理過ぎた。
それで、歳を取り、自分より強く美しいボクサーが現れると、彼の人生は急降下していった。
上の女性教師が、あの生徒に教えた自愛は、もっとマシだった。
「賢い」は生涯使えるし、それに、本当に賢くなったら、もう、自分が賢いなんて言う必要はなくなる。
だが、アリは、自分が美しく、強くなければ、自分は偉大ではなく、偉大ではない自分を愛することは出来なかったのだろう。
明らかに、一種の悲劇である。
そこで、最も賢い教師は、こう教えたのだ。
「何があっても、自分は完璧だと言いなさい」
勉強が出来なかろうが、「私は完璧」なのだ。
運動が出来なくても、「私は完璧」だ。
不細工だろうが、弱かろうが、「私は完璧」と言わないといけない。
ロリコンの変態であっても、「私は完璧」なのである。
BL好きの腐女子なんて、「私は完璧」以外の何者でもない。
心の中で言うだけでよろしい。
「私は完璧だ」と。
不細工で弱くても、美人で強くなるし、ロリコンの変態は、変態ではなくなる。
BL好きの腐女子は貴女子になる。
給料が安くても、仕事でミスをしても、卑怯者で責任感がないと言われても、「私は完璧だ」と言うのだ。
「私が完璧だなんてとでもない」と思った自分も完璧なのだと言わないといけない。
ダイエットしたいのに、お菓子を一袋全部食べてしまっても「私は完璧だ」と言うのだ。
それでもう、スリムで美人になっている。
肝は、「私は完璧だった」でも「私は完璧になる」でもない。
今、この瞬間、「私は完璧だ」なのである。
既に完璧なのである。
お金持ちや、モテモテを超えて完璧なのである。
そんな些細なもの(お金、魅力や美)は、ついでのもので、当然ある。
とにもかくにも、「私は完璧だ」と言いなさい。
これが、偉大な賢者の教えである。
だが、自愛が苦手な人が多い。どうしても自分が好きになれない人だ。
だが、自愛というか、自分が好きでないと、いろんな問題が起こる。
『新世紀ヱヴァンゲリヲン』というアニメは、元々は、シンジという14歳の少年が自愛を手に入れる物語で、最終話の最後の場面で、シンジは独り言をつぶやく。
「僕は自分が嫌いだ」
「でも好きになれるかもしれない」
そう言った時には、既に何かに気付き、自分を好きになりかけているのである。
なぜ、そうなったのかというと、まあ、最終話までにいろいろあったからだろう。
だが、我々は、レイやアスカやミサト、その他の魅力的なキャラクターとはなかなか出会えない。
それで、やっぱり自愛が苦手な人が多く、スピリチュアル界隈で奨められる「私を愛している」なんて言葉は気持ち悪くて言えないという人もいる。
だが、愛とまではいかなくても、自分が好きでなければ、やっぱり、人生は苦しいものになる。
自分が嫌いな原因なんて探っても仕方がないかもしれない。
「いや、それが重要だ」と言う人もいるが、面倒だし、時間がかかるし、そもそも、そんなことやりたくない。
そこで、私はこんなお話を思い出す。
アメリカのある小学校でのお話だ。
ある女性教師のクラスに、問題のある黒人の男子生徒がいた。
生まれた時からスラム街で生活し、家庭環境に問題があるなどというレベルではなかったのだろう。
その生徒は、授業中、ずっと後ろを向いていた。
その女性教師は、この生徒には自愛というものが全くない・・・自分には何の価値もないと思っているのだということが分かっていた。
そこで、この女性教師は、その生徒に、こんな奇妙な指示をした。
「これから、私に何を聞かれても、『それは僕が賢すぎるからです』と答えなさい」
これは、される側にとっても、嫌な指示ではない。
教師は、早速、質問した。
「どうして後ろを向いているの?」
「僕が賢すぎるからです」
「あなたのようなハンサムが後ろを向いているのはもったいないわ」
これで、その生徒は前を向くようになり、後に全米屈指の脳外科医になり、大統領が頭部を狙撃された時、一番に声がかかったのは彼で、そのことはニュースでも報道された。
自愛もやりようなのだ。
もし、その教師が、その生徒に、「『私を愛している』と言いなさい」などと言ったら、その生徒はより屈折したかもしれない。
プロボクシングの歴史で最も有名な選手は、世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリかもしれない。
彼が絶頂期に、日本のどこかの企業のテレビCMに登場したことがあった。
彼は、カメラに向かって、自信たっぷりに、
「I'm prettiest(俺は一番美しい)」
と言ったが、CMの企画というより、彼らしい、実際に、彼が言いそうな言葉だった。
彼はいつも、「俺ほどハンサムで強いボクサーはいない」と言っていたのも確かだ。
彼は、強いより先に、美しいことが重要だったのだろう。
もしかしたら、自分が偉大であることが最も重要だったのかもしれない。
彼は、うまい自愛のやり方を見つけたのかもしれないが、どこか作為的・・・無理矢理過ぎた。
それで、歳を取り、自分より強く美しいボクサーが現れると、彼の人生は急降下していった。
上の女性教師が、あの生徒に教えた自愛は、もっとマシだった。
「賢い」は生涯使えるし、それに、本当に賢くなったら、もう、自分が賢いなんて言う必要はなくなる。
だが、アリは、自分が美しく、強くなければ、自分は偉大ではなく、偉大ではない自分を愛することは出来なかったのだろう。
明らかに、一種の悲劇である。
そこで、最も賢い教師は、こう教えたのだ。
「何があっても、自分は完璧だと言いなさい」
勉強が出来なかろうが、「私は完璧」なのだ。
運動が出来なくても、「私は完璧」だ。
不細工だろうが、弱かろうが、「私は完璧」と言わないといけない。
ロリコンの変態であっても、「私は完璧」なのである。
BL好きの腐女子なんて、「私は完璧」以外の何者でもない。
心の中で言うだけでよろしい。
「私は完璧だ」と。
不細工で弱くても、美人で強くなるし、ロリコンの変態は、変態ではなくなる。
BL好きの腐女子は貴女子になる。
給料が安くても、仕事でミスをしても、卑怯者で責任感がないと言われても、「私は完璧だ」と言うのだ。
「私が完璧だなんてとでもない」と思った自分も完璧なのだと言わないといけない。
ダイエットしたいのに、お菓子を一袋全部食べてしまっても「私は完璧だ」と言うのだ。
それでもう、スリムで美人になっている。
肝は、「私は完璧だった」でも「私は完璧になる」でもない。
今、この瞬間、「私は完璧だ」なのである。
既に完璧なのである。
お金持ちや、モテモテを超えて完璧なのである。
そんな些細なもの(お金、魅力や美)は、ついでのもので、当然ある。
とにもかくにも、「私は完璧だ」と言いなさい。
これが、偉大な賢者の教えである。
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でも、良いワインになるとか。