信じ切ることが出来れば、どんなことでも実現する。
文字通り、どんなことでもであり、宙に浮いたり、大きなダイヤモンドの塊を出現させることも出来る。
信じ切ることが出来れば。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、ヒマラヤの大師達は、手に持ったコップの水を凍らせ、流れの速い川の上を歩いて渡り、種を発芽させ見る見る成長させた。
また、瀕死の重傷の少年を直ちに完全な健康体にし、あばら家を消すと立派な新しい家を「にょきにょきと」出現させた。
新約聖書の福音書では、イエスが様々な奇跡を起こしているが、それらは全て、出来ると信じ切れば誰でも出来ることである。
もちろん、人間が信じなくても、高次の精神がそんなことを起こすこともある。
それは丁度、漫画の中で、人間が自力で空を飛ぶ時には、その者が飛べると信じるか、漫画の作者が意図すれば飛べるようにである。
人間世界の漫画では、登場人物が信じても空を飛べない場合があるかもしれないが、この世界と言う漫画では、そんなことはあり得ない。
この世界は漫画であり、映画やゲームと言っても良い。
あなたは、自分が存在する漫画の世界でお金持ちになりたいとする。
それなら、お金持ちになれると信じ切れば、強制的にお金持ちになる。

ただ、信じ切ることが難しく、信じ切ることが出来るかどうかは、作者にまかされている。
だが、事実を言えば、あなた自身が作者なのだ。
サルトルは気付いて言った。
「小説を読むことは、小説を書くことである」
ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』という小説があり、それは、『ネバー・エンディング・ストーリー』という映画にもなったが、ある本を読んでいた少年が、その本の中に入ってしまい、自分で物語を作るのである。
実は、我々はもう、そんな本の中に入ってしまっているのだ。

何かを信じて、ストーリーを書き換える方法はこうだ・・・と言ってもいろいろなやり方があるのかもしれないが、これは昔は、一般の人は出来なかった(させてもらえなかった)簡単な方法だ。
ルドルフ・シュタイナーが言う通り、昔は、福音書(新約聖書のイエスの物語部)を読むことは禁止されていた。
しかし、今はおおっぴらに読める。
まあ、自分の世界で禁止した人は別なのだが。
そこで、福音書を読み、イエス自身が「これは譬喩である(事実ではないたとえ話である)」と言っていない限り、全て事実として捉える。
想像の中でイエスとして振る舞い、イエスのようにすることを実感出来るまでになれば、もうイエスのようなことが出来る。
女性の場合は?
イエスが女性であっても全く問題ない・・・というより、私は、イエスが女性であったという世界を見たことがある。

荒唐無稽と思われる人は、冗談だと思っていただけば良い。確かに、そんな人にとっては、ただのおとぎ話であるが、それはそれで良いのかもしれない。








  
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