戦後、日本人を洗脳し続けている呪文のような言葉がある。
それは「正義の味方」だ。
この言葉の阿呆さに気付かないといけないのに、誰も疑いすらしない。
「正義の味方」以前に、「正義」が、ロクでもない言葉だ。
正義は、英語でjustice(ジャスティス)だと思っている人は多いが、justiceは、まあ、「公平」だと思って良い。人や行為を公正に扱うことをjusticeと言うのだ。
ところが、正義の義とは、特定の集団の道理、つまり、教義という意味で、早い話が、偏見である。
だから、正義とは「誰かが正しいと思い込んでいる1つの狭い考え方」という程度の意味だ。
英語に正義に該当する言葉はないが、もしあるとすれば、「資本主義への賛同」であり、中国なら「共産主義の推進」といったものになると思う。
正義とは、その程度の意味なのだ。
ところが、正義を、「真理」とか「神の理念、あるいは、神そのもの」と思っている人が多い。
私もそうだった。
だが、それなら、「正義の味方」は変な言葉だと分かる。
なぜなら、真理や神は味方など必要ではないからだ。
だが、正義の実際の意味である「偏見」には味方が必要だ。
「味方あっての真理」などでは全くないが、「味方あっての偏見」であり、味方がいなくては偏見は成り立たない。
慣習的、あるいは、文学的な意味では、正義の味方は、英語では、「ヒーロー」、あるいは、「knight in shining armour(輝く甲冑の騎士)」であり、単に、「華々しい者」「やんやと持てはやされる者」という意味で、真理であるかどうかは全く関係ない。
ヒーローとはただ、特定のグループにとっての強い味方のことだ。
全く知らないが、「正義について語ろう」「正義の話をしよう」みたいな本があると思う。私は読んではいないが、中身は全くの偏見であることは分かる。
上にも述べた通り、正義そのものが偏見だからだ。
そりゃ、戦後70年以上、「正義」「正義の味方」は、日本を騙し続けた言葉なのだから、上のように、いきなり正体を暴露されたからって困るかもしれない。
ところで、我々が「正義」と思い違いしている「真理」「神の真理」の本当の意味は重要である。
だが、だがだ。
人間の頭では真理は分からないのだ。
もしかしたら、「愛」が真理なのかもしれないが、それなら、人間には愛は分からない。
これに関しては、アイルランドの詩人W.B.イェイツも「愛は神の領域であり、人間には分からない」と謙虚に認めている。
だが、イェイツも早計なことを言ってしまった。まあ、ある程度正しいし、「正義」「正義の味方」よりははるかにマシだが。
それは、「憎しみは人間の領域だから、人間は憎むのをやめれば良い」だ。
言っておく。
人間は、愛することは出来ないが、憎むのをやめることも出来ないのだ。
ただ、それらの否定形である、「愛さないこと」「憎むこと」は常時やっているのである。
面白いことに、イェイツは、上で述べた人間最高の心がけである「憎むのをやめる」ことをすれば、神の恩寵を得られる・・・つまり、分かり易く言えば、引き寄せが出来ると言っている。
それが正しいとしても、さっきも述べた通り、人間は、憎むことを止められない。
人間に出来る、唯一の正しいこと、それによって、引き寄せを起こせる方法は、思考を止めることだ。
これは、想念を消す、考えることを止めるなどとも言う。
また、「思考を止める」とは、「思考を消す」と同じ意味だ。
これはもう、今の社会で誰も賛成してくれないと思って良い。
だが、それは構わない。
とりあえず、分かる者だけが得をさせていただこうではないか。
いつも言うが、今を意識すれば、自然に思考は消える。
今を意識する方法などについては、いつも書いているので省くが、分からなければ、「今」の意味を思いながら、「今、今、今、・・・」と唱えても良い。
そうすれば、自ずと思考は消え、真理と一致し、真理があなたを守り、引き寄せの力が自然に備わる。
だがまず、ソクラテスのように、「私には知恵がない。よって、立派なことは考えられない」と謙虚に認めることが必要と思う。
それは「正義の味方」だ。
この言葉の阿呆さに気付かないといけないのに、誰も疑いすらしない。
「正義の味方」以前に、「正義」が、ロクでもない言葉だ。
正義は、英語でjustice(ジャスティス)だと思っている人は多いが、justiceは、まあ、「公平」だと思って良い。人や行為を公正に扱うことをjusticeと言うのだ。
ところが、正義の義とは、特定の集団の道理、つまり、教義という意味で、早い話が、偏見である。
だから、正義とは「誰かが正しいと思い込んでいる1つの狭い考え方」という程度の意味だ。
英語に正義に該当する言葉はないが、もしあるとすれば、「資本主義への賛同」であり、中国なら「共産主義の推進」といったものになると思う。
正義とは、その程度の意味なのだ。
ところが、正義を、「真理」とか「神の理念、あるいは、神そのもの」と思っている人が多い。
私もそうだった。
だが、それなら、「正義の味方」は変な言葉だと分かる。
なぜなら、真理や神は味方など必要ではないからだ。
だが、正義の実際の意味である「偏見」には味方が必要だ。
「味方あっての真理」などでは全くないが、「味方あっての偏見」であり、味方がいなくては偏見は成り立たない。
慣習的、あるいは、文学的な意味では、正義の味方は、英語では、「ヒーロー」、あるいは、「knight in shining armour(輝く甲冑の騎士)」であり、単に、「華々しい者」「やんやと持てはやされる者」という意味で、真理であるかどうかは全く関係ない。
ヒーローとはただ、特定のグループにとっての強い味方のことだ。
全く知らないが、「正義について語ろう」「正義の話をしよう」みたいな本があると思う。私は読んではいないが、中身は全くの偏見であることは分かる。
上にも述べた通り、正義そのものが偏見だからだ。
そりゃ、戦後70年以上、「正義」「正義の味方」は、日本を騙し続けた言葉なのだから、上のように、いきなり正体を暴露されたからって困るかもしれない。
ところで、我々が「正義」と思い違いしている「真理」「神の真理」の本当の意味は重要である。
だが、だがだ。
人間の頭では真理は分からないのだ。
もしかしたら、「愛」が真理なのかもしれないが、それなら、人間には愛は分からない。
これに関しては、アイルランドの詩人W.B.イェイツも「愛は神の領域であり、人間には分からない」と謙虚に認めている。
だが、イェイツも早計なことを言ってしまった。まあ、ある程度正しいし、「正義」「正義の味方」よりははるかにマシだが。
それは、「憎しみは人間の領域だから、人間は憎むのをやめれば良い」だ。
言っておく。
人間は、愛することは出来ないが、憎むのをやめることも出来ないのだ。
ただ、それらの否定形である、「愛さないこと」「憎むこと」は常時やっているのである。
面白いことに、イェイツは、上で述べた人間最高の心がけである「憎むのをやめる」ことをすれば、神の恩寵を得られる・・・つまり、分かり易く言えば、引き寄せが出来ると言っている。
それが正しいとしても、さっきも述べた通り、人間は、憎むことを止められない。
人間に出来る、唯一の正しいこと、それによって、引き寄せを起こせる方法は、思考を止めることだ。
これは、想念を消す、考えることを止めるなどとも言う。
また、「思考を止める」とは、「思考を消す」と同じ意味だ。
これはもう、今の社会で誰も賛成してくれないと思って良い。
だが、それは構わない。
とりあえず、分かる者だけが得をさせていただこうではないか。
いつも言うが、今を意識すれば、自然に思考は消える。
今を意識する方法などについては、いつも書いているので省くが、分からなければ、「今」の意味を思いながら、「今、今、今、・・・」と唱えても良い。
そうすれば、自ずと思考は消え、真理と一致し、真理があなたを守り、引き寄せの力が自然に備わる。
だがまず、ソクラテスのように、「私には知恵がない。よって、立派なことは考えられない」と謙虚に認めることが必要と思う。
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