私が昔読んだ、ディール・カーネギーの『人を動かす』に、人間の最も強い欲求は「自己重要感」だと書かれていたが、カーネギーはこれを読者に納得させるだけのことをうまく示していたと思う。
自己重要感とは、言葉通りの意味で、自分が重要な人間だと思うことだ。
だが、今は、自己重要感を欲することを「自己承認欲求」と呼ぶのが一般的と思う。
これも、言葉通りで、自分の価値を自分で承認することだが、これを心から感じることを、人間は強く求めているということだ。
学校で良い成績を取ろうとする意欲は、ほとんどが、それによって、自分に価値があると感じることが出来る・・・つまり、自己重要感・自己承認欲求が満たされるからである。
人間は誰でも、自己重要感・自己承認欲求を強く求めるが、それは、最も単純には、「自分は偉いと思いたい」「自分は優秀だと思いたい」という欲求に現れ、それは、他人が自分を偉いと認めてくれることで実感する。
つまり、『星の王子さま』に出てきた、変なおじさんのように、ただ皆が自分を「やんや」と持てはやしてくれたら満足するのである。
それで、多くの人が、「私は東大卒です」「私はPh.D(博士号)を持っています」「私はアメリカの大企業に勤めています」「私は内科医です」「私の年収は2000万円です」と、別に言う(書く)必要もないところで言ったり書いたりする。
これも、『星の王子さま』にあったが、子供が大人に、自分の友達がどんな子かを話す時、「明るい色の髪で」とか「クッキーが好きで」とか「サッカーが好き」と言っても通用せず、「お父さんが弁護士だ」と言ったら、すぐ納得してもらえるというのも、大人は前者のような言い方(サッカー好き等)では、その子の価値が分からないが、後者のように言えば(パパが弁護士等)、その子の価値が分かると「思い込んでいる」からである。
また、家を説明するのでも「壁の煉瓦の色が」とか「庭にゼラニュームの鉢が置いてあって」では駄目で「10万ドルの家」と言わないといけない。
そういったことに関し、『星の王子さま』では、「大人ってへんてこりんだ」と、正しく評価し、読者だって、「本当はそうなんだ」と思っているのである。
そして、我々は『星の王子さま』の、その「へんてこりんな大人達」と同じになってしまっているのだろう。
だが、『星の王子さま』の王子さまは、子供っぽい人間の弱さも示している。王子さまには、自立心、自律心ってものが全くない。
せっかく、当たり前の価値観を持っていながら、力がない。
つまり、優しいけど何にも出来ない愚か者だ。
その王子さまの進化形が『かもめのジョナサン』のジョナサンだ。
ジョナサンは、当たり前の価値観と共に、自立精神を持っていた。
面白いことに、『星の王子さま』は、王子さまが死んで物語が終わるが、『かもめのジョナサン』では、ジョナサンが死んでからジョナサンはやっと本物になり、本当に生きる。
我々は、今すぐ、死んで生まれ変わったジョナサンにならないといけない。
ただ、『かもめのジョナサン』の作者のリチャード・バックが、ヒッピー思想に留まってしまっていたのだろう。
いまひとつ、生まれ変わった後のジョナサンにリアリティがない。
つまり、バックは、ジョナサンになりたいと思っていただけで、なれなかったのだ。
これに関しては、私はあまり詳しくないが『マトリックス』で、ネオがモーフィアスに教えられたように、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
である。
つまり、
「ジョナサンになろうとするな、ジョナサンであると知れ」
である。
日常的なことに言い換えれば、
「金持ちになろうとするな。金持ちであると知れ」
「イケメンになろうとするな。イケメンであると知れ」
「脚を長くしようと思うな。脚が長いと知れ」
「あの子を彼女にしようと思うな。あの子が彼女であると知れ」
である。
とりあえず、そう思い込めば良いのだが、そのためには、いろんな方法があり、人によって、多少、合う合わないがある。
ここで、そのいろんなやり方を書いているので、それぞれで多少の矛盾を感じるかもしれない。
その中で、自分に合ったものを根気強くやれば良いだけだが、実をいうと、向き不向きも、それほどはなく、どれでも良いのである。
自己重要感とは、言葉通りの意味で、自分が重要な人間だと思うことだ。
だが、今は、自己重要感を欲することを「自己承認欲求」と呼ぶのが一般的と思う。
これも、言葉通りで、自分の価値を自分で承認することだが、これを心から感じることを、人間は強く求めているということだ。
学校で良い成績を取ろうとする意欲は、ほとんどが、それによって、自分に価値があると感じることが出来る・・・つまり、自己重要感・自己承認欲求が満たされるからである。
人間は誰でも、自己重要感・自己承認欲求を強く求めるが、それは、最も単純には、「自分は偉いと思いたい」「自分は優秀だと思いたい」という欲求に現れ、それは、他人が自分を偉いと認めてくれることで実感する。
つまり、『星の王子さま』に出てきた、変なおじさんのように、ただ皆が自分を「やんや」と持てはやしてくれたら満足するのである。
それで、多くの人が、「私は東大卒です」「私はPh.D(博士号)を持っています」「私はアメリカの大企業に勤めています」「私は内科医です」「私の年収は2000万円です」と、別に言う(書く)必要もないところで言ったり書いたりする。
これも、『星の王子さま』にあったが、子供が大人に、自分の友達がどんな子かを話す時、「明るい色の髪で」とか「クッキーが好きで」とか「サッカーが好き」と言っても通用せず、「お父さんが弁護士だ」と言ったら、すぐ納得してもらえるというのも、大人は前者のような言い方(サッカー好き等)では、その子の価値が分からないが、後者のように言えば(パパが弁護士等)、その子の価値が分かると「思い込んでいる」からである。
また、家を説明するのでも「壁の煉瓦の色が」とか「庭にゼラニュームの鉢が置いてあって」では駄目で「10万ドルの家」と言わないといけない。
そういったことに関し、『星の王子さま』では、「大人ってへんてこりんだ」と、正しく評価し、読者だって、「本当はそうなんだ」と思っているのである。
そして、我々は『星の王子さま』の、その「へんてこりんな大人達」と同じになってしまっているのだろう。
だが、『星の王子さま』の王子さまは、子供っぽい人間の弱さも示している。王子さまには、自立心、自律心ってものが全くない。
せっかく、当たり前の価値観を持っていながら、力がない。
つまり、優しいけど何にも出来ない愚か者だ。
その王子さまの進化形が『かもめのジョナサン』のジョナサンだ。
ジョナサンは、当たり前の価値観と共に、自立精神を持っていた。
面白いことに、『星の王子さま』は、王子さまが死んで物語が終わるが、『かもめのジョナサン』では、ジョナサンが死んでからジョナサンはやっと本物になり、本当に生きる。
我々は、今すぐ、死んで生まれ変わったジョナサンにならないといけない。
ただ、『かもめのジョナサン』の作者のリチャード・バックが、ヒッピー思想に留まってしまっていたのだろう。
いまひとつ、生まれ変わった後のジョナサンにリアリティがない。
つまり、バックは、ジョナサンになりたいと思っていただけで、なれなかったのだ。
これに関しては、私はあまり詳しくないが『マトリックス』で、ネオがモーフィアスに教えられたように、
「速く動こうとするな。速く動けると知れ」
である。
つまり、
「ジョナサンになろうとするな、ジョナサンであると知れ」
である。
日常的なことに言い換えれば、
「金持ちになろうとするな。金持ちであると知れ」
「イケメンになろうとするな。イケメンであると知れ」
「脚を長くしようと思うな。脚が長いと知れ」
「あの子を彼女にしようと思うな。あの子が彼女であると知れ」
である。
とりあえず、そう思い込めば良いのだが、そのためには、いろんな方法があり、人によって、多少、合う合わないがある。
ここで、そのいろんなやり方を書いているので、それぞれで多少の矛盾を感じるかもしれない。
その中で、自分に合ったものを根気強くやれば良いだけだが、実をいうと、向き不向きも、それほどはなく、どれでも良いのである。
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