岡本太郎が1950年頃、『今日の芸術』で、通信技術の発達により、世界的規模で文明は均質化すると書いていたが、それはそれで凄い慧眼(けいがん。優れた眼力)であり、当たっている部分も確かに多いが、そうでないところも多い。
昔は、西洋の人々から見て日本人は、能面のように表情がないとか、いつも薄笑いをしていて非常に不気味だと言われることが多かった。また、顔だけでなく、身体表現も極めて控え目だった。
アルベルト・アインシュタインが日本に来て講演した時、アインシュタインは聴衆が眠っているのかと思ったが、皆がうつむいて、じっと静かに聴いていることが分かると、大変に感動したらしい。
逆に言えば、日本人から見れば、西洋人は、表情も身体表現も話し方も非常にオーバーということになる。
そして、今の時代でも、昔ほどではないかもしれないが、「動の西洋と静の日本」というのは変わらないと思う。
昔だって(それこそ明治時代でも)、日本人らしい日本人でも、西洋に行って長く暮らすと、表情も身振り手振りも大きくなって帰ってきた。だが、やはり、どこか不自然だったと思う。
そして、今でも、ずっと日本にいる日本人は、西洋人から見れば、大人しくて表情に欠ける。
昔から、西洋人は、日本人のそんな静かなところ、顔や身体に表情を出さないところを、「日本の神秘」と言って、称賛したり憧れることも少なくなかったし、今もそうなのだと思う。
では、「日本の神秘」が張子の虎(みかけだおし)かというと、そういう場合も多いが、そうでないこともある。
その中でも、日本の武道は西洋人にとって、今も憧憬である。
西洋の格闘技が、鍛え上げた肉体美を誇る選手達が、パワーとスピードと見栄えのする技で魅了するのに比べ、日本の武道では、さして筋肉質でもなく、時には、ひょろっとしていたり、そもそも、小柄で体重も少ない武道家が、体格や筋力で勝る相手を、魔法のように仕留めることがある。
実際、西洋の力自慢の格闘家が、小さな日本の武道家に手も足も出ないこともある。
こんなものを見て、西洋人に、「日本の神秘」が強烈に印象付けられることもあるのだが、もっと小さなことにも「日本の神秘」は感じられる。
そして、「日本の神秘」を備えた日本人が、ごく一部かというと、日本人らしい日本人は、案外にそんなところがあるように見える。
日本の伝統的美徳は、明治維新と第二次世界大戦の敗戦で大きく損なわれた。
それは確かであるが、完全に消えたわけではなく、それどころか、言葉とか風習の中に、根強く残っている。
おそらくは、アメリカは戦後、かなり強制的に、日本人をアメリカ人化しようとしたのだが、半分もうまくいかなかったのだと思う。
ただ、今の日本人は、中途半端なアメリカ人化と共に、日本の美しい伝統を失い、どこか自律しない、弱く自信のない民族になり果てている。
一方で、インターネットの発達で、日本の伝統が世界に影響を与えているのだから、おかしなものである。
初音ミクが世界で大人気なのは、初音ミクが案外に日本的であるという部分も大きいはずだ。
初音ミクは決して欧米的ではない。日本のものだと言われたら、外国人も納得する。
いや、西洋では、日本人と中国人と韓国人の区別などしていないと言う人もいて、そんな部分も確かに多いようだが、そうでないところが確かにある。
初音ミクは、髪が緑で目が青でも日本人なのである。
まず、初音ミクの顔は、目と眉が離れた東洋人顔である。
スタイルは当然良いが、西洋のモデルのようなスタイルとはかなり違う。
小柄だし、極端に腰がくびれていないし、背が高くないこともあって、脚が物凄く長いわけでもない(西洋でも長いとは言われているが)。
表情も身体のポーズも割合に控え目で、おかしなことに、西洋人の真似をすると、どこかぎごちなく感じるところもある。
いろいろ述べたが、つまり、日本人は、潜在意識を使ったり、引き寄せを行う場合でも、日本人らしさを生かした方が、大きな力を確実に発揮する。
引き寄せの方法のほぼ全てが西洋のもので、日本人にやや合わないところがある。
かといって、一部の者が、日本的成功法則みたいなものを世に出してはいるが、ひょっとしたら、日本人がやっても、西洋の引き寄せより駄目なものがほとんどのように思える。
日本と西洋の違いは、何と言っても、多神教と一神教、情緒優先と論理優先、そして、控え目な日本人と自己アピールが強い西洋人の差である。
西洋の引き寄せでは、セルフラブ(自愛)が強調されるが、日本人は自己を忘れることを美徳とする。
それらも、極端過ぎたり、本質を失うと、美点が欠点になることもある。
簡単に言えば、自分が日本人であれ、アメリカ人であれ、無理のないこと、自然なこと、心的抵抗のないことをやればうまくいくが、そうでなければ、なぜかうまくいかず苦しむのである。
いまだ、日本人には、西洋のダンスやバレエが、どこか似合わないところが確実にある。
それらの分野で、世界で活躍する日本人もいるが、案外に日本人らしさで成功している部分があるのである。つまり、完全に西洋人になり切ろうとすれば、あまりうまくいっていない。
日本人は、西洋流引き寄せが出来ないわけではないが、合うものを選ばないといけない。
そこに、日本人らしさ、自分らしさを反映させてこそ、うまくいくのである。
それは、難しいことではなく、むしろ、非常にシンプルで分かり易いものだ。
特別な「和の成功法則」があるわけでは決してない。
そこはもう解明出来ているのであるが、また述べていく。
昔は、西洋の人々から見て日本人は、能面のように表情がないとか、いつも薄笑いをしていて非常に不気味だと言われることが多かった。また、顔だけでなく、身体表現も極めて控え目だった。
アルベルト・アインシュタインが日本に来て講演した時、アインシュタインは聴衆が眠っているのかと思ったが、皆がうつむいて、じっと静かに聴いていることが分かると、大変に感動したらしい。
逆に言えば、日本人から見れば、西洋人は、表情も身体表現も話し方も非常にオーバーということになる。
そして、今の時代でも、昔ほどではないかもしれないが、「動の西洋と静の日本」というのは変わらないと思う。
昔だって(それこそ明治時代でも)、日本人らしい日本人でも、西洋に行って長く暮らすと、表情も身振り手振りも大きくなって帰ってきた。だが、やはり、どこか不自然だったと思う。
そして、今でも、ずっと日本にいる日本人は、西洋人から見れば、大人しくて表情に欠ける。
昔から、西洋人は、日本人のそんな静かなところ、顔や身体に表情を出さないところを、「日本の神秘」と言って、称賛したり憧れることも少なくなかったし、今もそうなのだと思う。
では、「日本の神秘」が張子の虎(みかけだおし)かというと、そういう場合も多いが、そうでないこともある。
その中でも、日本の武道は西洋人にとって、今も憧憬である。
西洋の格闘技が、鍛え上げた肉体美を誇る選手達が、パワーとスピードと見栄えのする技で魅了するのに比べ、日本の武道では、さして筋肉質でもなく、時には、ひょろっとしていたり、そもそも、小柄で体重も少ない武道家が、体格や筋力で勝る相手を、魔法のように仕留めることがある。
実際、西洋の力自慢の格闘家が、小さな日本の武道家に手も足も出ないこともある。
こんなものを見て、西洋人に、「日本の神秘」が強烈に印象付けられることもあるのだが、もっと小さなことにも「日本の神秘」は感じられる。
そして、「日本の神秘」を備えた日本人が、ごく一部かというと、日本人らしい日本人は、案外にそんなところがあるように見える。
日本の伝統的美徳は、明治維新と第二次世界大戦の敗戦で大きく損なわれた。
それは確かであるが、完全に消えたわけではなく、それどころか、言葉とか風習の中に、根強く残っている。
おそらくは、アメリカは戦後、かなり強制的に、日本人をアメリカ人化しようとしたのだが、半分もうまくいかなかったのだと思う。
ただ、今の日本人は、中途半端なアメリカ人化と共に、日本の美しい伝統を失い、どこか自律しない、弱く自信のない民族になり果てている。
一方で、インターネットの発達で、日本の伝統が世界に影響を与えているのだから、おかしなものである。
初音ミクが世界で大人気なのは、初音ミクが案外に日本的であるという部分も大きいはずだ。
初音ミクは決して欧米的ではない。日本のものだと言われたら、外国人も納得する。
いや、西洋では、日本人と中国人と韓国人の区別などしていないと言う人もいて、そんな部分も確かに多いようだが、そうでないところが確かにある。
初音ミクは、髪が緑で目が青でも日本人なのである。
まず、初音ミクの顔は、目と眉が離れた東洋人顔である。
スタイルは当然良いが、西洋のモデルのようなスタイルとはかなり違う。
小柄だし、極端に腰がくびれていないし、背が高くないこともあって、脚が物凄く長いわけでもない(西洋でも長いとは言われているが)。
表情も身体のポーズも割合に控え目で、おかしなことに、西洋人の真似をすると、どこかぎごちなく感じるところもある。
いろいろ述べたが、つまり、日本人は、潜在意識を使ったり、引き寄せを行う場合でも、日本人らしさを生かした方が、大きな力を確実に発揮する。
引き寄せの方法のほぼ全てが西洋のもので、日本人にやや合わないところがある。
かといって、一部の者が、日本的成功法則みたいなものを世に出してはいるが、ひょっとしたら、日本人がやっても、西洋の引き寄せより駄目なものがほとんどのように思える。
日本と西洋の違いは、何と言っても、多神教と一神教、情緒優先と論理優先、そして、控え目な日本人と自己アピールが強い西洋人の差である。
西洋の引き寄せでは、セルフラブ(自愛)が強調されるが、日本人は自己を忘れることを美徳とする。
それらも、極端過ぎたり、本質を失うと、美点が欠点になることもある。
簡単に言えば、自分が日本人であれ、アメリカ人であれ、無理のないこと、自然なこと、心的抵抗のないことをやればうまくいくが、そうでなければ、なぜかうまくいかず苦しむのである。
いまだ、日本人には、西洋のダンスやバレエが、どこか似合わないところが確実にある。
それらの分野で、世界で活躍する日本人もいるが、案外に日本人らしさで成功している部分があるのである。つまり、完全に西洋人になり切ろうとすれば、あまりうまくいっていない。
日本人は、西洋流引き寄せが出来ないわけではないが、合うものを選ばないといけない。
そこに、日本人らしさ、自分らしさを反映させてこそ、うまくいくのである。
それは、難しいことではなく、むしろ、非常にシンプルで分かり易いものだ。
特別な「和の成功法則」があるわけでは決してない。
そこはもう解明出来ているのであるが、また述べていく。
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