この我々の住む世界より高い次元の世界には、願ったことが何でも即座に叶う世界がある。
仏教では、それが天界である。
仏教の天界は、高位から下位に大きく3つに別れ、その3つのそれぞれにも、また、高位から下位へのいくつかの段階がある。
最も低い天界では、我々の世界と似た感じではあるが、やはり天界であり、心に願ったことは、かなり簡単に実現する。
低い天界ほど、そこの人々は、まだ欲望を多く持っているが、高位の天界に進むにつれ、人々の欲望は少なくなる。そして、欲望が少なくなるほど、もっと大きな喜びがある。
人間は、なるべく立派に生き、死んだ後は、まずは、最低レベルで良いから天界に行くべきで、そこから、徐々に上の天界に上がっていけば良い。

これは仏教に限った宇宙観ではなく、特に、キリスト教、イスラム教には、よく似た部分がある。
日本の天界は高天原(たかまがはら。たかあまはら)であるが、古事記には、天界にレベルがあることは書かれていない。しかし、古事記を読むと、やはり天界に区分があることが推測されるのである。
イスラム教では、アラーの教えに従って生きることを奨めるために、特に、男性教徒には、天界の嬉しいシステムが明かされている。
即ち、死んで天界に行けば、全く好みのタイプの花嫁が70人とか100人、与えられるのである。まあ、実際は、無限に与えられるということと思う。

これらは、宗教的な話のようだが、実際に、それに近いようになっていると思われる。
どういうことかというと、我々の世界も、高位の世界も、極めて高度な知生体によって作られた仮想世界のようなものであると考えられるからだ。これを「シミュレーション仮説」と言い、今のところ、その名の通り「仮説」ではあるが、特に知性が高い者には、それはほぼ間違いないと考える者が多いのである。

ところで、そのような、願いがすぐに叶う世界があるのに、なぜ、我々は、こんな不自由な世界に住んでいるのだろう?
それには、いろんな説があり、罰であるとか、修行であるとか言われることもある。
しかし、キリスト教の牧師などでも、特に頭の良い人は、だいたい、こう説明するのではないかと思う。
つまり、こんな不自由な世界では、願いを叶えた時の喜びは格別なので、それを味わうためである。
それで、我々は、敢えて、力がないフリをするため、この世界に自主的に降りて来たのだ。
本来、我々は、どんな願いも即座に叶えることが出来る神のようなもので、それは、この世界でも変わらない。
だが、この世界では、自分は無力だと信じることが出来るのである。
そして、自分が無力だと思うほど、実際に無力なのである。
しかし、空腹の後の食事が美味しいように、我々は、散々、不自由な想いをした後で望みのものを手に入れて歓喜を経験するのである。
とはいえ、今や、あまりに駄目な者が多過ぎるのである。
力がないフリにも限度がある。それなのに、本当に駄目な人間になり切ってしまっている者が、あまりに多いのである。
まあ、そこからの大逆転というのも確かに面白いだろうが、やっぱりやり過ぎだ。

そこで、我々は、必要に応じ、高位世界に戻らなければならない。
もちろん、高位世界に戻ると言っても、それは想像の中でやるのである。
その世界で、どんな願いも、即座に叶える様子を想像すれば、神の力の感覚が戻るから、この世界でも、同じようにやると良い。
少し慣れれば、すぐに、高位の世界に居る時と近いことが出来るようになる。
相変わらず制限は多いが、高位世界の感覚を思い出すごとに、どんな大きな願いも叶えられるようになる。
そして、十分に楽しんで満足すれば、死んで高位世界に戻り、別のゲームをすることで、さらに高位の世界に進むのである。








  
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