藤平光一さんの『氣の威力』に書かれている重要なこととして、「当たり前の真理を言えば氣が出る」というものがあった。
氣が出れば、心や身体の力が拡張される。
そして、藤平さんが取り上げた、1つの「当たり前の真理の言葉」は、「重みは下にある」で、これは、地球上にいる限り真理である。
氣が出るかどうかは分からないが、この言葉を言えば、身体の力が強化されることは実験で確認出来るし、そのやり方も書かれている。
では、最高の真理の言葉とは何であるかに興味が出るかもしれない。
高いレベルの真理であるほど、発揮される力が大きいからだ。

デカルトが辿り着いた究極の真理の言葉は、有名な「われ思う、ゆえにわれあり」だった。
ところが、この言葉に対して、イギリスの作家コリン・ウィルソンが「思おうが思うまいが、われはある」と指摘したが、これには反論不可能だ。
ところが、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、絶対的な真理は「私は在る」で、「私は在る」が最高のマントラ(真言)だと言った。
つまり、「われ思う、ゆえにわれあり」の「われ思う」「ゆえに」は不要というわけだ。
一切の理由なく「私は在る(われはある)」のである。
だが、これらの議論が、どこかふにゃふにゃしているように感じるのは、「私(われ)」の定義が曖昧だからだ。
よって、唱えても、それほど力は出ない。
デカルトやウィルソンの場合は、明らかに、「私」とは「自我」だ。
しかし、マハラジの言う「私」は、彼の他の発言と合わせて考えても、自我のことなのか真我(魂のようなもの)なのか曖昧なのだ。
そして、おそらく、マハラジの言う「私」は、真我のことだが、それなら、「私は在る」と言葉で言うのは不適切だ。
なぜなら、言葉で「私」と言えば、自我しか指せないからだ。
もし、「真我は存在する」と言っても、それは、人間には確信出来ない。「真我」は概念ではないので、言葉で表現することは出来ないからだ。
概念でしかないことを言葉にする虚しさは、「愛」という言葉で、我々は痛感しているはずなのだ。
ところが、マハラジは「あなたが確信出来る唯一のことは、私が在るということだけだ」と言っており、これなら「私」は「自我」を指しているように思われる。しかし、やっぱり曖昧なのだ。

ところで、ラマナ・マハルシがこう述べている。
「夢のない深い眠りの中でも、『私』は存在する」
「夢のない深い眠りの中で、世界は存在しない」
つまり、こうだ。
夢のない深い眠りの中で存在するのは「真我」だ。
夢のない深い眠りの中で存在しないのは「自我」と「世界」だ。
ただ、普通の人は、夢のない深い眠りにあっても、世界は存在すると思っている。マハルシは、それは事実と反する幻想だと言う。
どういうことかというと、世界は心が創り出す幻想だということだ。
マハルシの言うことは真理だ。
ただし、証明は出来ないのだ。
なぜなら、証明とは自我(心)が行うことであり、自我を超えて存在する真我を証明の中に含めることは出来ないからである。

さて、証明は出来ないが、究極の真理は何であるか、一応、言っておくと、
「神の他に何もない(There is nothing, but GOD)」
だ。
言い換えれば「一切は神」で、こちらでも良い。
だから、この言葉を「神の他に何もない。ただ神だけがある」とする人もいる。
だが、この言葉は、証明出来ないのだから、「信じろ」とは言えない。
よって、現代人の多く、あるいは、現代人のほとんど、あるいは、現代人のほぼ全員が信じない。
残念なことである。この言葉を唱えれば、不可能はないからだ。
なぜなら、藤平光一流に言えば、最高の真理の言葉は最大の氣を出させるからだ。
普段、「神実現の呼吸法」を行っている者が、この言葉を唱えると、すっと自我が消えて神化する。
神化のような事例が『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻にある。
ロンドンで、石を積んだ馬車が転倒し、多量の大きな石が人の上に落下した。
だが、L.H.ローソンが「神の他に何もない」と唱えると、その人は平気で立ち上がった。
L.H.ローソンは翻訳書は出ていないと思うが、自分で本も書いていて、ジョセフ・マーフィーも彼の本を引用している。








  
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