人間は、引き寄せの能力を、誰でも標準的に持っている。
標準的なのだから、そのやり方は簡単で、特別な人しか知らなかったり、学問を積まないと分からないようなものではない。
だが、当たり前のこととして学ぶ必要がある。
たとえば、歩くこと、走ること、泳ぐことのようなものだ。
人間は、見て学ばない限り、2足歩行、ランニング、スイミングは出来ない。
狼に育てられた人間の子供には2足歩行が出来ない。
江戸時代までの日本人は、飛脚と忍者以外は走ることが出来なかった。
人間は、泳ぎは、誰かから学ばない限り出来ない。

引き寄せのやり方を、現代のほとんどの人が知らないのは、学校や社会やテレビによって、忘れさせられたからだ。
別に、学校は子供達に、特に引き寄せのやり方を忘れさせるのではないが、子供達の自然な思考能力を奪うのである。
斎藤一人さんがよく、引き寄せのやり方について「俺と他の人との違いは、俺はなぜか知っていたということだ」と言うが、斎藤さんが知ってるなら、誰でも知ってるはずなのだ。
けれども、確かに、斎藤さんだけがよく知っているように見える。
それはなぜか?
簡単なことだ。
斎藤さんは中学校しか出ていない上、元々、学校が嫌いで、小中学校だって、真面目に通わなかったり、先生の言うことなど信じなかったからだ。
だから、斎藤さんは、引き寄せのやり方を忘れなかったのである。

私の場合、変わった覚え方をしていたのだ。
だから、私は、子供の時から、満天の星空の中から、何の手がかりもなく土星を特定したり、以前見たテレビ番組を、好きな時に再放送させたりといった、確かに凄いが、あまり役に立たないことが出来たのだ。
もちろん、私も学校が大嫌いで、大嫌いになる理由があった(その理由は関係ないので言わないが)。

引き寄せのやり方は、イエスと釈迦で特に違いはない。
イエスは、「お前には、神という大金持ちの父親のようなものがいて、お前を超絶愛しているので、頼めば良い」と言う。
釈迦も、「お前には、仏という途方もない金持ちの父親がいる。そして、お前は、仏が超愛している仏の後継者なのだ」と言う。
これらは
◆『新約聖書』の「ルカ福音書」の「放蕩息子の譬」
◆『法華経』第4章「信解品(しんげぼん)」の「長者窮子の喩え」
である。

そして、面白いことに、上記の福音書と法華経の該当部分を読めば分かると思うが、これらの話を端的に統合した訓練が、これまで何度も取り上げた「神実現の呼吸法」である。
(1)息を静かに吐きながら「私はこれではない」と心で唱える。
(2)息を静かに吸いながら「私は誰か?」と心で唱える。
(3)息を吸いも吐きもせず「私は神である」と心で唱える。

以下に、私が愛読する聖書と法華経をご紹介する。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ