天の助けは、とても良いもので、私は大好きだ(笑)。
聖書の中に、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るであろうか」
という言葉があり、クリスチャンの人には、この言葉を大切にし、いつも唱えている人もいると聞く。
この言葉は、天の助けは必ずあるという、神への信頼と思う。
私も、天の助けには何度も救われた。
そして、別に、不安を煽るわけではないが、今は、天の助けがなければ、苦しいことになりかねない時代だ。
では、天の助けは、どうすれば得られるのだろう?
サミュエル・スマイルの『自助論』に、「天は自ら助くる者を助く」という、分かり易いようで、実は分かり難いことが主張されている。
スマイルズの欠点と言うのも何だが、スマイルズのこの言葉を「無限の努力をしろ」と受け取り、さらに、それを主張する人が多い。特に、昔の日本人のインテリ層がそうであったようで、それが日本人の一種の伝統になってしまった。
今の日本人は、それほど勤勉ではないが、努力主義という精神はやはり残っている。
つまり、スマイルズの言葉は、「自分で最大の努力をしてこそ、天は助けてくれる」と解釈されている。
しかし、本当に必要なのは「最小の努力」なのだ。
いくら努力不要論と言っても、本当に全く何もしなかったら駄目だろう。
二宮金次郎が、「家は人が手を入れなければあばら家になるし、畑は人が手を入れなければ荒れて収穫が出来ない」と言うが、そんなのは当たり前である。
二宮金次郎は、「だから、老子の無為自然なんてとんでもない」と言うが、それは極端論というものだ。
今の発達した農法でも、それなりに頑張る必要はあるが、かといって、苦しみながら嫌々やっているなら、何か間違っているのである。
宗教もその一種であるが、神秘とか霊を全く信じない人は、天の助けを得難い。ただ、そんな人でも、他者に多大な貢献をしている場合は別であるが、普通の人に出来ることではない。
一方、宗教や神秘や霊だけでも駄目である。
我々は、神秘的なことと、現実の泥臭いことの両方をやらないといけない。
つまり、いかに神様や仏様が好きでも、地に足がついていることも必要だ。
そして、神秘も現実も、自分が楽しいと思う分だけやれば良い。
現実世界で、研究をするのが大好きだったり、野球が大好きだったり、人の世話が大好きで、傍目には凄い努力をしているように見える人もいるが、それで本人は楽しいのである。
一方で、仕事や身の周りのことが、あまり好きでない人もいる。
そして、いかなる場合もバランスが必要だ。
いくら野球が大好きで一流選手になっても、やり過ぎて身体を壊したり、いろいろ面倒な状況に陥ってしまう人がいる。
逆に、仕事や身の周りのことが嫌でも、最低限のことはしないといけない。仕事や家庭で、自分の義務だけはちゃんと果たさないといけないし、最低限の身なりを整えることも必要だ。
仕事ばかりして家族を顧みなかったり、ひいきの野球チームやサッカーチームの過度な応援活動をしたり、ファンであるアイドルに入れ込み過ぎるのは、はっきり言って駄目である。
一方で、あまりに怠惰でやるべきことを何もしなかったり、宗教ばかりやっているのも、これまた駄目である。
とはいえ、極端なことをやっている者を、逆方向に過度に持って行こうとするのも良くない。
私の場合でいえば、現実があまり好きではないので、何とか最低限だけやるのだが、最低限であれば、いくら好きでなくても楽しく出来るのである。後は、神秘というか引き寄せでまかなっている。
そして、今は、世界も日本も、詳しい人は詳しいだろうが、あまり良い状況でないことも確かで、引き寄せの力(これは天の助けであるが)が必要である。
現実であまり頑張りすぎて、支配者や外国のスパイに目をつけられて、酷い目にあったり、最悪、殺されるような人もいる。
そんな人だって、天の助けがあれば大丈夫なのだが、現実主義の人は神秘的なことを馬鹿にして、自分で全部やろうとして、どんどん沼に落ち込んでいることが多い。
「霊主体従」という言葉がある。
霊(神秘)も体(現実)も両方大事であえるが、霊の方がずっと重要と考えるのが正しいあり方と思う。
だが、今は、「体主霊従」、あるいは、「体だけ」の人が多いのだろう。
先程も述べたが、霊とは言わないまでも心を大切にし、表向きは「体だけ」でも、社会に貢献し、人に優しくしていれば天の助けもあると思う。
だが、自分のためだけに現実で戦いまくると、天の助けがない代わりに、悪霊のようなものに支配され、成功しているように見えて、破滅に近付き、悲惨な最後となる者もいる。
私の場合は、現実主義に走り過ぎた時、過労で倒れてしまった・・・と言うより、倒されたのだろう。私は、現実主義的な行動をしていても、神秘が大好きだったから、そのおかげで無事に済んだ・・・つまり、倒れたことが天の助けだったのである。
アメリカの作家で事業家のチン・ニンチュウは、ある時、「神様に面倒を見てもらいさえすれば良いと分かった」と言うが、こんな努力家の言葉には注意が必要だ。
ニンチュウは、神と人の関係を、聖書に従って、羊飼いと羊で描写したが、羊だって、羊飼いの傍にいるくらいの現実的努力はしなくてはならない。
そして、私がまさに、現実は最低限のことしかせず、後は、神を頼るのである。
ただし、最低限の現実のこともしていないと気付いたら、そこは反省するのである。
聖書の中に、
「私は山に向かって目を上げる。わが助けはどこから来るであろうか」
という言葉があり、クリスチャンの人には、この言葉を大切にし、いつも唱えている人もいると聞く。
この言葉は、天の助けは必ずあるという、神への信頼と思う。
私も、天の助けには何度も救われた。
そして、別に、不安を煽るわけではないが、今は、天の助けがなければ、苦しいことになりかねない時代だ。
では、天の助けは、どうすれば得られるのだろう?
サミュエル・スマイルの『自助論』に、「天は自ら助くる者を助く」という、分かり易いようで、実は分かり難いことが主張されている。
スマイルズの欠点と言うのも何だが、スマイルズのこの言葉を「無限の努力をしろ」と受け取り、さらに、それを主張する人が多い。特に、昔の日本人のインテリ層がそうであったようで、それが日本人の一種の伝統になってしまった。
今の日本人は、それほど勤勉ではないが、努力主義という精神はやはり残っている。
つまり、スマイルズの言葉は、「自分で最大の努力をしてこそ、天は助けてくれる」と解釈されている。
しかし、本当に必要なのは「最小の努力」なのだ。
いくら努力不要論と言っても、本当に全く何もしなかったら駄目だろう。
二宮金次郎が、「家は人が手を入れなければあばら家になるし、畑は人が手を入れなければ荒れて収穫が出来ない」と言うが、そんなのは当たり前である。
二宮金次郎は、「だから、老子の無為自然なんてとんでもない」と言うが、それは極端論というものだ。
今の発達した農法でも、それなりに頑張る必要はあるが、かといって、苦しみながら嫌々やっているなら、何か間違っているのである。
宗教もその一種であるが、神秘とか霊を全く信じない人は、天の助けを得難い。ただ、そんな人でも、他者に多大な貢献をしている場合は別であるが、普通の人に出来ることではない。
一方、宗教や神秘や霊だけでも駄目である。
我々は、神秘的なことと、現実の泥臭いことの両方をやらないといけない。
つまり、いかに神様や仏様が好きでも、地に足がついていることも必要だ。
そして、神秘も現実も、自分が楽しいと思う分だけやれば良い。
現実世界で、研究をするのが大好きだったり、野球が大好きだったり、人の世話が大好きで、傍目には凄い努力をしているように見える人もいるが、それで本人は楽しいのである。
一方で、仕事や身の周りのことが、あまり好きでない人もいる。
そして、いかなる場合もバランスが必要だ。
いくら野球が大好きで一流選手になっても、やり過ぎて身体を壊したり、いろいろ面倒な状況に陥ってしまう人がいる。
逆に、仕事や身の周りのことが嫌でも、最低限のことはしないといけない。仕事や家庭で、自分の義務だけはちゃんと果たさないといけないし、最低限の身なりを整えることも必要だ。
仕事ばかりして家族を顧みなかったり、ひいきの野球チームやサッカーチームの過度な応援活動をしたり、ファンであるアイドルに入れ込み過ぎるのは、はっきり言って駄目である。
一方で、あまりに怠惰でやるべきことを何もしなかったり、宗教ばかりやっているのも、これまた駄目である。
とはいえ、極端なことをやっている者を、逆方向に過度に持って行こうとするのも良くない。
私の場合でいえば、現実があまり好きではないので、何とか最低限だけやるのだが、最低限であれば、いくら好きでなくても楽しく出来るのである。後は、神秘というか引き寄せでまかなっている。
そして、今は、世界も日本も、詳しい人は詳しいだろうが、あまり良い状況でないことも確かで、引き寄せの力(これは天の助けであるが)が必要である。
現実であまり頑張りすぎて、支配者や外国のスパイに目をつけられて、酷い目にあったり、最悪、殺されるような人もいる。
そんな人だって、天の助けがあれば大丈夫なのだが、現実主義の人は神秘的なことを馬鹿にして、自分で全部やろうとして、どんどん沼に落ち込んでいることが多い。
「霊主体従」という言葉がある。
霊(神秘)も体(現実)も両方大事であえるが、霊の方がずっと重要と考えるのが正しいあり方と思う。
だが、今は、「体主霊従」、あるいは、「体だけ」の人が多いのだろう。
先程も述べたが、霊とは言わないまでも心を大切にし、表向きは「体だけ」でも、社会に貢献し、人に優しくしていれば天の助けもあると思う。
だが、自分のためだけに現実で戦いまくると、天の助けがない代わりに、悪霊のようなものに支配され、成功しているように見えて、破滅に近付き、悲惨な最後となる者もいる。
私の場合は、現実主義に走り過ぎた時、過労で倒れてしまった・・・と言うより、倒されたのだろう。私は、現実主義的な行動をしていても、神秘が大好きだったから、そのおかげで無事に済んだ・・・つまり、倒れたことが天の助けだったのである。
アメリカの作家で事業家のチン・ニンチュウは、ある時、「神様に面倒を見てもらいさえすれば良いと分かった」と言うが、こんな努力家の言葉には注意が必要だ。
ニンチュウは、神と人の関係を、聖書に従って、羊飼いと羊で描写したが、羊だって、羊飼いの傍にいるくらいの現実的努力はしなくてはならない。
そして、私がまさに、現実は最低限のことしかせず、後は、神を頼るのである。
ただし、最低限の現実のこともしていないと気付いたら、そこは反省するのである。
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