正確にはどんな話なのか私は知らないが、インドの詩人タゴールがアインシュタインに、「人が見ていない時は月は存在しない」と言い、アインシュタインは同意しなかったという話がある。
人が観測していない時、電子は波動であるが、人が観測すると電子は粒子になるということは知られている。
だが、それは、電子のような小さなものの話だ。
とはいえ、たとえ月だろうと、根本的には原子で出来ているし、体積的に原子はほとんど電子の動きなのだから、電子に言えることは月にも言えると考えられる。
今は、やる子は少ないかもしれないが、「だるまさんがころんだ」という一種の鬼ごっこがある。
鬼の役の子は、他の子達に背を向け、「だるまさんがころんだ」と言うが、そう言っている間は、他の子供達は鬼に近付くことが出来る。
鬼は、「だるまさんがころんだ」と言い終わると振り向き、その時、動いている子がいたら、その子を捕虜に出来る。
タゴールの論では、鬼が後ろを向いて「だるまさんがころんだ」と言っている間、他の子供達は存在せず、鬼が振り返った途端、子供達が「出現する」のである。
普通の人は、「そんなアホな」と思うだろうし、量子力学的に説明出来る者だって、本当のところは分かっていない。せいぜいが、数式が理解出来るだけだ。アインシュタイン並に高名な物理学者のリチャード・フィリップス・ファインマンは、量子力学の初学者に、よくそう言っていたらしい。
タゴールは、人が見ている時、月がどんなふうに存在するか言わなかったのだろうかと思う。
単に「存在する」と言ったのなら、言い方が悪い。
もっと良い言い方をするなら、人が見ると、月(に限らないが)は、上で私が「だるまさんがころんだ」で、鬼が振り返った時の子供達のことを言ったように「出現する」のである。
出現する、生まれる、現れる、立ち現れる・・・そんな言い方が良いと思う。
私は、4歳の時に、そんなことは分かっていた。
なぜなら、出現する瞬間を見ることが出来るからだ。
私が覚えている範囲で言えば、私は4歳の時、それを発見し、夢中になった。
もちろん、私は普通の人なので、誰でも見ることが出来る。
だが、私は、そのやり方を知っているので、自分の器の範囲のものなら、何でも引き寄せることが出来る。
やり方はこうだ。
何でも良いが、良くも悪くも、あまりインパクト(心理的衝撃や印象)がない物を使う。
普通のコップとか、特に思い入れのない靴とか、石ころとかだ。
私が最初に使ったのは、ドアノブだったように思う。
本当は、インパクトがあったって良いのだが、最初はそうでない方が良いと思う。
まず、その物をじっと見るのだが、何も考えずに、ぼーっと見る。
荘子流に言えば、「視線を自然にし、思慮分別を働かせず、あるがままに見る」で、まあ、確かにその通りだが、「ぼーっと見る」と言うのが合っているように思う。
ぼーっとしたら、意識が弱くなる。意識が薄れると言っても良い。
そうすると(意識が弱くなると)、その物の存在が弱くなる・・・希薄になる、ぼんやりしてくる、あるかないか分からなくなる、あやうくなる・・・まあ、いろんな言い方が出来るが、何か変な感じになると思う。
ちなみに、意識がどんどん弱くなり、ついに消えると、物も消えるわけである(まあ、世界が消えるのだが)。
つまり、「人が見るからある」と言うよりは「人が意識するからある」と言う方が正しい。
意識が弱いと、存在も弱くなるのだ。
一度ではうまくいかないかもしれないが、何度もやっているうちに、物が幽霊のように存在を弱め、弱いがゆえに、出現する様子が分かると思う。
つまり、「見たら出現する」と言うよりは、「見ている間、連続して出現し続ける」と言うべきなのだ。
タゴールも詩聖らしく、もっと気合いを入れて表現すべきだったが、彼も、あまり分かっていなかったのかもしれない。
いや、タゴールも、4歳の普通の子供には負けるのだろう。
物質出現の謎を解けば、引き寄せなど朝飯前・・・かもしれない。
人が観測していない時、電子は波動であるが、人が観測すると電子は粒子になるということは知られている。
だが、それは、電子のような小さなものの話だ。
とはいえ、たとえ月だろうと、根本的には原子で出来ているし、体積的に原子はほとんど電子の動きなのだから、電子に言えることは月にも言えると考えられる。
今は、やる子は少ないかもしれないが、「だるまさんがころんだ」という一種の鬼ごっこがある。
鬼の役の子は、他の子達に背を向け、「だるまさんがころんだ」と言うが、そう言っている間は、他の子供達は鬼に近付くことが出来る。
鬼は、「だるまさんがころんだ」と言い終わると振り向き、その時、動いている子がいたら、その子を捕虜に出来る。
タゴールの論では、鬼が後ろを向いて「だるまさんがころんだ」と言っている間、他の子供達は存在せず、鬼が振り返った途端、子供達が「出現する」のである。
普通の人は、「そんなアホな」と思うだろうし、量子力学的に説明出来る者だって、本当のところは分かっていない。せいぜいが、数式が理解出来るだけだ。アインシュタイン並に高名な物理学者のリチャード・フィリップス・ファインマンは、量子力学の初学者に、よくそう言っていたらしい。
タゴールは、人が見ている時、月がどんなふうに存在するか言わなかったのだろうかと思う。
単に「存在する」と言ったのなら、言い方が悪い。
もっと良い言い方をするなら、人が見ると、月(に限らないが)は、上で私が「だるまさんがころんだ」で、鬼が振り返った時の子供達のことを言ったように「出現する」のである。
出現する、生まれる、現れる、立ち現れる・・・そんな言い方が良いと思う。
私は、4歳の時に、そんなことは分かっていた。
なぜなら、出現する瞬間を見ることが出来るからだ。
私が覚えている範囲で言えば、私は4歳の時、それを発見し、夢中になった。
もちろん、私は普通の人なので、誰でも見ることが出来る。
だが、私は、そのやり方を知っているので、自分の器の範囲のものなら、何でも引き寄せることが出来る。
やり方はこうだ。
何でも良いが、良くも悪くも、あまりインパクト(心理的衝撃や印象)がない物を使う。
普通のコップとか、特に思い入れのない靴とか、石ころとかだ。
私が最初に使ったのは、ドアノブだったように思う。
本当は、インパクトがあったって良いのだが、最初はそうでない方が良いと思う。
まず、その物をじっと見るのだが、何も考えずに、ぼーっと見る。
荘子流に言えば、「視線を自然にし、思慮分別を働かせず、あるがままに見る」で、まあ、確かにその通りだが、「ぼーっと見る」と言うのが合っているように思う。
ぼーっとしたら、意識が弱くなる。意識が薄れると言っても良い。
そうすると(意識が弱くなると)、その物の存在が弱くなる・・・希薄になる、ぼんやりしてくる、あるかないか分からなくなる、あやうくなる・・・まあ、いろんな言い方が出来るが、何か変な感じになると思う。
ちなみに、意識がどんどん弱くなり、ついに消えると、物も消えるわけである(まあ、世界が消えるのだが)。
つまり、「人が見るからある」と言うよりは「人が意識するからある」と言う方が正しい。
意識が弱いと、存在も弱くなるのだ。
一度ではうまくいかないかもしれないが、何度もやっているうちに、物が幽霊のように存在を弱め、弱いがゆえに、出現する様子が分かると思う。
つまり、「見たら出現する」と言うよりは、「見ている間、連続して出現し続ける」と言うべきなのだ。
タゴールも詩聖らしく、もっと気合いを入れて表現すべきだったが、彼も、あまり分かっていなかったのかもしれない。
いや、タゴールも、4歳の普通の子供には負けるのだろう。
物質出現の謎を解けば、引き寄せなど朝飯前・・・かもしれない。
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