神話の中に深遠な真理があると言う人がいるが、本当だろうか?
聖書や『バガヴァッド・ギーター』のような聖典も、一応、神話としておく(実際に神話であるが)。
宗教家はもちろん、啓蒙家、神秘家などが、叡智を得るといった目的のために、「旧約聖書を読め」「古事記を読め」「バガヴァッド・ギーターを読め」と、強く訴えたりすることも多いと思う。
「神話を忘れた国は亡ぶ」と言う者もいるが、その主張は、国民が民族としての一体性を保つには神話が必要だという理由かもしれないが、その場合でも、神話の中には叡智が秘められているからと言いたいのかもしれない。
しかし、今の日本で『古事記』を読んだことがある人はむしろ珍しいし、アメリカには固有の神話がない。
神話の内容の一部を示し、「ここに、こんな深い意味がある」という話を聞くと、それはこじつけであるように思うことも多い・・・いや、ほとんどがそうかもしれない。
一方で、およそどの神話も、悪い影響を与える箇所は、結構多いのではないかと思う。
もちろん、神話というものが、純粋な形で伝えられていることは、およそあり得ず、長い年月の間に、改ざんや記述の追加、あるいは、別の話が紛れ込んだ場合も多いだろう。

そんな神話が、果たして、座右の書足り得るかと言うと、実を言うと、座右の書というのは、何でも良いのである。
深遠な哲学書でも、偉人の伝記でも、あるいは、『ドラえもん』のような漫画でも、全く同じである。
と言うのは、人間の脳は、指向性を持てば、いかなるものにも、その指向性に適応した内容をこじつける働きがあるからだ。
つまり、神話というのも同じだと思う。
神話の中に深遠な真理があるかどうかは、読む人の心構え次第なのである。

だから、どんな書でも、知恵を引き出す座右の書に出来る。
だが、他の人にとっては座右の書になっても、「この本は実は悪いものではないか?」と疑いの目で見るようになったら、もう知恵は与えてくれない。
本ではないもので知恵を得ることも出来る。
しかし、人間は、脳の構造上、何か意思を向けるものを持った方が、自分の哲学を作り易く、そのために、書というのは便利なのである。
まあ、そんな脳の性質を利用して洗脳を行うことは、大昔から行われてきたので、座右の書の解釈は、必ず自分で行わなければならず、「法華経のここはこういう意味である」と言う者の話には気をつけないといけない。
そこへいくと、宮沢賢治は、『法華経』やエマーソンも愛読したが、座右の書は化学の本であったらしい。

ちょっと、神話の中の1つの話を取り上げる。
ギリシャ神話だ。
神々の王ゼウスの実兄で、冥界を支配するハーデスが、実姉妹の(姉か妹か分からない)デーメーテールの娘コレ―に一目ぼれし、ハーデスはゼウスに、コレ―との結婚の許可を得ようとした。
血縁関係は無茶苦茶だが、まあ、そこは気にしても仕方がない(笑)。
ちなみに、コレ―の父親はゼウスである・・・ついて来れるか?^^;
また、ハーデスにとって、ゼウスは弟ではあるが、ゼウスがオリュンポス12神のトップであるので、ゼウスに従っていた。
ゼウスは、ハーデスの願いを聞き入れ、コレ―を無理矢理さらっても良いと言った。男女の仲とは、そんなふうにして出来るのだとそそのかしたという説もある。
こんな神話から、「女に対する強引さが男らしさ」といった馬鹿げた考え方が生まれてしまった感もあるが、この話がなかったとしても、同じような考え方は生まれたと思う(男は馬鹿だからね)。
実際、ハーデスがコレ―を略奪してからは、地上も神々も散々なことになり、これを収めるには、長い年月と苦難、そして、ゼウス、ハーデス、デーメーテールの母であるレアーの仲裁を必要とした。
やはり、恋愛において(恋愛に限らないが)、相手のことを考えない強引さや無思慮は、ロクなことにならないのだが、巷では、ハーデスによるコレ―の略奪が称賛されている場合すらあるから困ったものである。
つまり、ギリシャ神話も読み手次第であるが、それは、いかなる神話も同じである。

ギリシャ神話も聖書も古事記もバガヴァッド・ギーターも、神聖な知恵の書になるかどうかは、読み手の精神性による。
そして、そんな誤解を生み易い神話より、私なら、『銀河鉄道の夜』『真説 宮本武蔵』『ソクラテスの弁明』をお勧めしたい気もするが、何を選ぶかは、結局、「たまたま」である。
出逢った書を大切に。そして、慎み深く読むと良いのだと思う。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ