モラルがない人間が成功することは決してないし、成功どころか、平安すら得られないだろう。
もし、モラルがない人間が富や地位を得ると、間違いなく破滅が訪れる。モラルがない人間が、外面上は、豊かだったり権勢を保っているように見えても、普通の人以上に惨めなのである。
なぜなら、モラルがない者の判断は異常であり、大きく間違っているが、それを無理に通そうとすれば大きな反動が来るし、また、身近な者からは避けられるようになるからだ。

モラルとは、個人的欲望に自ら制限をかけることで、一言で言えば、自己制約のことである。
人間は、誰しも放埓(勝手気まま)でありたいが、それを制限した倍の力を神、あるいは、自然に与えられる。そのように感じるのである。

ところで、ある成功した事業家は、やはり、モラルの重要性を理解しており、社員や家族が簡単にモラルを持てるような指導をしようとした。そこで、その事業家は、誰でも自己制約が出来る簡単な方法を考えた。
それは、家に上がる時、脱いだ靴をきちんと揃えることと、傘をたたんで傘立てに立てることであった。
もちろん、自分の家、他人の家、靴を脱ぐ必要のあるお店や公共の場を問わない。
そういえば、こんな話がある。
ある平凡な男性が、こんなことを言っていたという話がある(かなり昔の話だ)。
「私は、死んで閻魔様の前に出たら、『私は、人生で大したことは何もしなかったが、便所の下駄だけはきちんと揃えていました』と言うつもりだ」
この男性は、モラルがあり、富や栄光とは無縁でも、幸福であると思われた。

だが、その事業家の会社や家庭は、ある時期までは順風満帆だったが、やがて、そうではなくなった。
それなら、上の、便所の下駄を揃えていたという男性も、必ずしも幸福な状態とは限らない。
つまり、小市民、小善人では駄目なのである。
モラルがある人間は、正しい判断力があり、それは、優秀であるということだ。
そうであるなら、リーダーにならなければならないのだ。まあ、いろんな意味でだが。
そしてである。
リーダーは、モラルから挑戦を受ける。
つまり、モラルを捨てる危険にさらされる。
そして、残念ながら、多くの者は、その危険に躓(つまず)き、挑戦に敗れてモラルを失い転落する。転落先は、普通の人よりはるかに低い位置・・・地獄のようなものだ。
その意味、成功などしない方が幸福という面は確かにある。
簡単な喩えで言えば、普通の人は、自分が靴を揃えたり、便所の下駄を揃えればそれで良い。
偉くなりたければ、イエスが言ったように、むしろ、人に仕えないといけない。即ち、他人の靴や下駄も揃えないといけない。
そして、偉くなったら偉くなった分、大勢の人に、靴や下駄を揃えさせないといけない。
さらに、次々襲い来る、モラルを捨てる誘惑に打ち勝たないといけない。
そういったことが出来ないと、たかが人間の成功者など、哀れなものである。

何かのヤクザ映画で、偉いヤクザの妻が言っていたものだ。
「人間、神仏に手を合わせる気持ちがなくなったら終わりです」
特に、大きな自由を持つ者はそうだと言いたいのだと思う。
モラルを保つ優れた方法は感謝の心を持つことで、黒住宗忠も言っていたように、まずは口先だけでもいいから「ありがたい」「ありがとう」と出来る限り唱えることだ。
宗教っぽい感じがするかもしれないが、誰にも強制されず、自主的に、「ありがとう」「ありがたい」などと唱えることは、自己制約の気持ちを起こさせる。つまり、モラルを持てる。
そうであるなら、嫌でも成功するだろう。
小さなことで、ついついモラルをないがしろにする者が多い。そんな者が、いわゆる「うだつが上がらない」のである。それに気付き、「ありがとう」「ありがたい」と唱えれば、豊かになれるだろう。








  
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