想像力がある人なら、自分に合った霊的な修行を何か1つしたいと思っているものだ。
それをやっていれば、時間が味方し、日が経てば経つほど霊的に向上し、精神が安定し、引き寄せがうまくなり、自由になる。
確かに、甘い考えと自己中心的な思いで、人を超えた力を安直に求めることが良くないのは当然である。
だが、霊的修行自体が楽しく、毎日の生活に欠かせず、多少の根気を持って、1年365日継続出来るなら、効果は保証されるし、人生は生き甲斐のあるものになる。

言うまでもなく喩えであるが、この世界は漫画で、我々は漫画の登場人物だ。
多少は仕方がないが、少なくとも、あまりに自己中心的にならないよう自制し、モラルを持ち、真面目に修行する登場人物が不幸になる漫画(小説、劇、映画、紙芝居)はない。

我々はなぜ、五感を働かせて外界を感知し、それに反応して何かを思うのだろう?
それは簡単なことで、この世という漫画の作者が我々を通して、自分が、漫画の世界を楽しむためだ。
誰だって、一度は、漫画や小説、あるいは、紙芝居を書いたことがあるだろう。
その作品の中で、ある登場人物が、夏の美しい海で遊んでいることを描いた時、自分が、その登場人物になったつもりで、夏の海を感じているはずだ。
それに熱中すれば、自分は漫画の登場人物と一体化し、自分が作者であることを忘れるかもしれない。少なくとも、瞬間的には、自分が作者であることを忘れているのだ。
この世という漫画は、もちろん、我々が知る漫画と完全に同じではなく、とても高度なシステムで成り立っているが、そのあたり(作者が登場人物と一体化すること)は、やはり似ているのである。
つまり、我々を通して、作者は、漫画の世界を感じ、それに反応し、様々な想いを味わうのである。
誠実な登場人物には、好ましい恋愛の相手と出逢うよう、ストーリーを導き、冒険を楽しませ、いくつかの敗北と静かな満足がある勝利を与えるだろう。
よって、毎日、自分のためでなく、自分に高貴さを纏(まと)わせるために修行するのである。
修行によって、煌めきを纏った登場人物は作者に愛される。それが我々の言う、神に愛されるということである。

そういえば、最近、私は修行していないなあ(笑)。
腕振り運動や、様々な運動は、ゴリゴリ自分のためにやっているし(笑)。
ところで、自分が描く漫画の美しい魔法使いには、精神集中の修行をさせるのではないだろうか?
それを怠っている時、ヒーローやヒロインであっても、困難に巻き込まれる。
精神集中とは緊張することではなく、集中を通して、心を静かにすることだ。
司馬遼太郎の『真説・宮本武蔵』の中で、吉岡道場の当主、吉岡直綱が、毎夜、そのような修行をし、力で勝る弟の又市郎をはるかに超えていた。
このあたり、吉川英治の『宮本武蔵』は、全く異なった内容であるが、司馬遼太郎のものの方がきっと良い気付きが得られる。
修行の内容は何でも良いが、あなたの上位存在である作者が好ましく思うものであるよう工夫すると良い。








  
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