この世界は漫画のようなもので、我々は漫画の登場人物のようなものだ。
このように、漫画に喩えるのが一番分かり易い。
だが、紙芝居が好きなら紙芝居、ゲームが好きならゲームでも良いが、静止画の方が良い。
動く映像だと、どうしても時間の流れを感じる。詳しくは言わないが、時間とは概念、あるいは、情緒に過ぎず、実体はない。
それで、時間を感じると、どうしても、本質が眩んでしまうのである。
どうでも良いことだが、私個人は紙芝居に喩えることが好きである。

この世界という漫画の作者は神のようなものであるが、神である作者の機嫌を取ったり、作者に好かれて運命を良くしようなんて思わないことだ。
全く無駄なことだからだ。
要は、主役たりえる態度でいれば良いのである。
そのためにはどうすれば・・・いや、することは作者が決めるし、考えることも同じだ。
だが、登場人物の想念(あるいは念)は、作者すら、「我々を見て感じる」のである。それで、作者が意外に思うことすらある。
想念だけは我々のものだ。
だから、我々は主役の想念を持たねばならない。
では、主役の重要な想念とは何か?
これに関しては、アイルランドの大詩人ウィリアム・バトラー・イェイツが、『ラピス・ラズリ(瑠璃)』という詩で、一言で言ってくれている。
それはGay(陽気な)だ。
悲劇のヒーロー、ヒロインであるはずの、リア王、ハムレット、それに、オフィーリアすら、皆、陽気なのだとイェイツは洞察した。
だが、我々は、しかめっ面をし、陰気になり、不満を感じている。
それは主役の態度ではない。
主役は陽気だ。
『リア王』や『ハムレット』等は、悩んだり、迷ったりしたら不幸になることを示す劇であるだけなのだ。
一方、我々は陽気でいる限り、不幸は近付けない。
だから・・・「陽気に笑え」である。
笑うことほど大事なことはない。








  
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