宮沢賢治の有名な詩『雨ニモマケズ』は、本来は宮沢賢治の個人的メモに過ぎず、他人に読ませる気はなかったようだ。
つまり、ここに書かれたことが宮沢賢治の個人的な理想とか信条とか掟のようなものだったのだろうと思う。
私は、子供の時から、その中の「自分を勘定に入れず」という言葉をとても気に入っていたが、原文は「ジブンヲカンジョウニ入レズニ」で、「カンジョウ」が勘定で良いのかは、本当のところは分からない。
また、「カンジョウ」が勘定であっても、特に子供には意味が分かり難いと思う。
私が子供の時に考えたことは、簡単に言えば「僕の分はいい」という言葉で表せる。
つまり、自分を含めた子供が5人居るのにお菓子が4個しかない時、自分を勘定に入れなければ、4個で良いことになる。
自分はお菓子を得られなくても我慢するわけである。
だが、1人がお菓子を得られないことを知ったら、お菓子を得られた4人が平気なはずがないと思うが、子供の時から、そんな(平気な)者ばかりのように感じる。
学校教育やマスメディアの影響で、人々がモラルを失くしてしまっているのである。

やはり、私が子供の時に見た西部劇映画に、こんな場面があった。
1人の男が野外で火を起こしてコーヒーを沸かしていた。コーヒーは一人分しかなかったが、この男は、もう1人いた他人の男のために、コーヒーを2杯分に薄めて一緒に飲んだ。
私は、コーヒーを飲む度に、必ずこの話を思い出すので、もう何万回という数よりずっと多く思い出しているのである。
濃いコーヒーを丸ごと人にあげるのは、もちろん素晴らしいが、それよりも、このように分ければ良いのである。
動物ですら、自分の子供でもない同種の動物に食べ物などを分けることがあるらしい。
しかし、今の人間は、独り占めし、他に与えない者が多いように思える。

インドの聖者ラマナ・マハルシが、こんな話をしたことがあったらしい。
10人の男が、泳いで川を渡った。
その後、1人の男が、全員いるか確認するために、仲間の数を数えた。
しかし、何度数えても9人しかおらず、男は動揺した。
単に、自分を数えていなかっただけである。
だが、皆、自分を勘定に入れずに数えたので、9人しかいないと思い込んだ。
誰かが、「あいつがいない」と言うと、別の者が「あいつは溺れたんだ」と言い、皆、悲しくなって泣き出した。
そこへ、1人の男が通りかかり、男達から話を聞いて、状況を理解した。
そこで、この通りすがりの男は、こんな提案をした。
「私がお前たちの頭を一人ずつ殴るので、殴られた者は数を数えろ」
それが実施され、殴られた者は、「1」「2」「3」と数を数えていき、最後の男は「10」と言った。
10人目の仲間が見つかった男達は大喜びをした。

マハルシは、この男達を愚か者として話した。
確かに愚かであるが、この男達は、他人を大切にし、自分を勘定に入れない・・・つまり、自分の利得をあまり重視しない人間達であるのかもしれないと、私は思った。
自分を勘定に入れなくても、自分のことは他の者が勘定に入れてくれる。
なんと良いことだろうと思う。
そんな人達は、きっと神様が勘定に入れてくれるだろう・・・というのはメルヘンかもしれないが、案外に真実かもしれない。

『雨ニモマケズ』は、『イーハトーヴ交響曲』のために冨田勲さんが作曲し、合唱されている。
また、『雨ニモマケズ』は、下にご紹介した『銀河鉄道の夜』に収録されている。非常に安価だ。『銀河鉄道の夜』と併せて読まれることをお勧めする。








  
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