死の危険が迫った時、深い絶望を感じた時、全ての希望を失った時、人は不意に目覚め、これまでとは全くの別人に生まれ変わることがある。

時々、例に出すが、こんな話がある。
ある青年がいて、彼は何をやっても駄目で自信がなく、消極的で、会話も苦手だった。
この青年がある時、「僕は何て駄目なんだ」とつぶやくと、それを聞いた男がこう言った。
「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
このようなことを初めて言われた青年は、何かを感じて、この言葉について考え続けた。
「自分でそう思っているだけ」
考え続けているうちに、数日で啓示のようなものを感じた青年は、急速に変貌を遂げ、誰からも一目置かれる有力者と言える存在になった。

多くの人が、程度の違いはあるかもしれないが、自分は駄目だと思っている。
そして、実際に、そう思っているだけの分、駄目なのである。
対して、心理学が教えるところでは、赤ん坊は全能感を持っているという。
自分では何もしなくても、何でもしてもらえる。これは、王様のようなものだ。
それが感応するのか、どんな人間でも、赤ん坊の前では、赤ちゃん言葉で話しかけてしまうのである。

だが、歳を取るごとに、自分が王様でないことを理解していき、自分の場所を見つける。自分の場所は変動し、それと折り合いをつけることを繰り返しながら、死ぬまで生きるのである。
上の青年の場合は、自分の場所がなかったのである。最低の場所以外にはね。
この青年は、ずっと低い場所にいたが、一度上がってから低い場所に落ちる者も少なくない。
そして人間は、長く最低の場所にいて、浮上の道が見えないと、絶望し、希望を失う。
だが、上の青年は、最低の場所にいる時に、不意に目覚め、高く上昇したのである。

いったん、どん底に落ちた者が、他愛ないきっかけで浮上する話が、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の女』や、ロオマン・ガリの『自由の大地』にある。
それらが、コリン・ウィルソンの心理学的評論『至高体験』に取り上げられている。
『自由の大地』の本は、なかなか入手出来ないが、『二十六人の男と一人の女』は電子書籍もあり、読めば、その方法が少しでも分かるのではないかと思う。
この作品は、詩のように美しいと言われる、ゴーリキーお気に入りの短編である。

要は、「高いもの」に目を向ければ良いだけである。
上の青年は、自分の中にある「高いもの」に目を向け、『二十六人の男と一人の女』では、堕落した男達は、ターニャという名の16歳の可愛い少女を通して、女神のようなものに目を向けたのだ。
ロオマン・ガリの『自由の大地』では、やはり堕落したフランス兵達は、空想上の少女を通して天使や女神のようなものに目を向けたのだろう。
低いものから目を逸らし、高いものを見る。
それだけのことである。








  
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