人生の目標を、自我を穏やかにするとか、自我を消すことだと勘違いしている人が多い。
私は、老人でもないのに、自我がごく穏やかで柔和なだけの人を見たことがある。
弱く、存在感がなく、能力を全く感じない。
そんな人が、「世の中を変えるぞ」と言う。
もう、笑う気も、呆れる気もしない。
誰も、こんな人間にならないで欲しいと切に願う。
その人は、どうしてそんな人になったのかというと、働かなくても生活出来る保障を得たからだった。
その人は、柔和な自我を持っているが、それでも、「世の中を変えるぞ」と言う。そうとでも言わないと、やっぱり苦しいのだ。
人間は、食って、寝て、垂れるだけでは幸福になれない。
楽しくなければ生きていけない。

自我を穏やかにするとか、消すだけでは駄目なのだ。
激しさ、情熱も必要なのである。

ベーシックインカムという制度をご存じだろうか?
国民全員に、国が、最低限の生活が出来るお金を毎月支給するという制度で、これにより、貧困がなくなり、また、精神的に追い詰められる人も少なくなると考えられている。
支給金額は、日本の場合、月に1人7万円が妥当と言われている。
いろいろな国の一部都市で、ベーシックインカムの実験が行われ、良好な結果が出ているらしい。
だが、私は、そんなものを信じない。
実験は、期間限定だということを、実験に参加した人達は知っているのだから、本当にベーシックインカムをやる時とは、全然違うはずだ。
また、実験に参加する人間の性質は、あまりに偏っているとしか考えられない。
そして、本当に観察すべきタイプの人間は、実験に参加していないと思う。

インドの聖者ラマナ・マハルシは、真の目標は。自我が消えたように見えることではなく、自我を破壊し、殺すことだと言った。
しかし、やはり聖者と言われるラメッシ・バルセカールは、マハルシにだって自我はあったと指摘する。

目標は、恍惚とした老人になることでも、自我を消失させた亡霊のような人間になることでもない。
理想の自我を言葉で表現することは難しい。
だが、ラマナ・マハルシは、「ある意味、聖者は子供と似ている」と言う。
子供は、遊びに夢中になっても、それが過ぎれば忘れてしまう。
そんなふうに、笑っても、泣いても、怒っても、それが過ぎれば、心が静かになっているのが聖者だ。
しかし、多くの人が大誤解しているように、「子供=聖者」ではない。
子供は未熟な馬鹿だ。
荘子は、「真に優れた人の心は鏡のようだ」と言った。
来るものは、そのまま映すが、何の痕跡も残さず、傷付かない。
難しいが、割と見えてきた。
いつまでも怒らない、いつまでも泣かない、いつまでも喜ばない・・・こんな自我を持てば良いのだろう。
怒ってもすぐ忘れる。だが怒る。
泣いてもすぐ忘れる。だがなく。
嬉しいことや、楽しいこともそうだ。だが、喜び、楽しむのだ。
ただ、いつまでも、過ぎた喜びにしがみつかないことだ。
これを、「今に生きる」という。
そして、これをやるには生命力が必要なのだ。
生命力のない人ほど、感情を引きずるのだ。

いつまでもクヨクヨしない。
いつまでも怒らない。
いつまでもいい気にならない。

そんな人間になるにつれ、能力がだんだん高くなり、超能力者になり、ついには、神のようになる。
腕振り運動を、よそ事に気を取られず、淡々と、延々と繰り返すと、そんなことが分かってくるし、そうなってくると思う。
なぜなら、腕振り運動は、心の粘着性を消し、サラサラにする工夫が満載されているからだ。
そして、面白いことに、心がサラサラになれば、血液も体液もサラサラになって病気も治ってしまうと思われるのだ。
つまらないことをやっている時間があったら、腕振り運動をすることが好ましい。
良ければ、『気功革命』の「甩手1」と「甩手2」のやり方を見て、好きな方、あるいは、両方をやると良いと思う。








  
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