紛争と呼ばれているものも、明確な国と国との戦いではないだけで、銃、機関銃、ロケット砲、ミサイルといった武力兵器による攻撃があるのだから、戦争と言える。
だが、ロシアとウクライナという大きな国同士(ウクライナは国土面積はヨーロッパ最大で人口も4300万人以上)の開戦には、さすがに驚く。

戦争の原因は、イデオロギー(思想、信念)の違いと言われることもあるが、そうではなく、イデオロギーの優劣を争うことから起こる。
利益の奪い合いや、小さな恨みに対する復讐が大きな戦争を引き起こすように見えることもあるが、イデオロギー・・・早い話が、価値観の優劣を争わない限り、戦争にはならない。
略奪やジェノサイドは、戦争ではなく、根本的な道徳や倫理に欠ける侵略や圧制である。

個人対個人でも「戦争しよう」という言い方はおかしくはない。国同士の戦争も本質で変わらない。
表向きには、利益の争いがあるかもしれないが、本当は、価値観の優劣を争っているのである。
個人間に利益の争いがあっても、価値観が似ているなら(双方がある程度、精神的に大人であることは必要だが)、話し合いで解決する場合も多いし、仲良くならないまでも、落としどころを見いだし、無駄な争いを避ける。

国同士の戦争も、レベルの低いイデオロギーの優劣の争いかもしれないが、それを言うと、言った者が戦争を仕掛けられる。
それほど、人間にとって、イデオロギーの優越性・・・自分が信じるものに価値があると認められることは重要なのだ。
そして、それが人間の最大の欠点だ。
アイドルAとアイドルBがいて、それぞれにファンがいて、Aのファンは「AはBより可愛い」と言い、Bのファンは「いや、明らかにBの方が可愛い」と言う。
それを、お互い、仲良くならないまでも、相手の価値観として認めれば良い・・・というか認めるしかないのだが、それぞれのファンが、自分の「可愛い」の価値観を絶対視すれば、つまり、優劣を争うと戦争になる。
国同士の戦争も、本質は変わらない。
もちろん、表向きとか、「内実」と呼ばれる戦争の原因は利益の争いだが、価値観の優劣を争わない限り戦争にならない。

例えばの話だが、ヴィーガン(動物性食品を一切食べない完全菜食主義者)が、「ヴィーガンは肉食者より優れている」と主張すれば戦争になる。
そこで、ヴィーガンは「いや、動物が可哀そうだからだ」と言うが、それも、「動物を可哀そうと思うヴィーガンの精神性が、肉食者より優れている」という、価値観の優劣の主張なのだから、実際は、戦争を仕掛けていると考えざるをえないと思う。
ただ、道徳的、倫理的にヴィーガン以外には誤りがあると納得させることが出来れば、ヴィーガンの主張が通る。しかし、それはあり得ない。
ジェノサイドや人身売買は、何が何でも止めないといけないと道徳的に認められるが、肉食に関しては、それはあり得ない。
だから、ヴィーガンの取るべき道は、ヴィーガンが立派であることを行動で示すことだけなのだ。

『荘子』にこんな話がある。
ある国の王様が、自分は国を立派に治めているので、自分は優れているという自信を持ち、自分と神仙(上位の仙人で神に近い)の優劣を競おうと、神仙のいる山に行った。
だが、神仙に会うと、神仙と自分のあまりの差に呆然とし、何も考えられないほどになった。
これは、人間の価値観など、ちっぽけなものであることを示している。
荘子は、価値観の優劣を競う者は愚かで、それよりも賢い者は、区別はしても、そこに優劣を決めないと言い、そして、最も賢い者は、区別もしないと言う。
神仙は、区別もしない者で、その王様のように、価値観の優劣を決める者が足元にも及ぶ相手ではない。
神仙の方では、別に、王様を見下してはいない。むしろ、対等と思っている。
王様は、自分の価値観で、自分を神仙と比べればゴミのようなものと認識したのである。区別をしない神仙の力に当てられてね。
荘子は、一頭の馬も万物で、一本の指も天下であると言う。
これが理解出来れば神仙と変わらない・・・こう言うと、文句を言う者もいるが、それはそれで良いのである。
だが、淡々と腕振り運動をしていれば、考えずとも分かるようになるだろう。








  
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