私は、腕振り運動を熱心にやっているが、もし、会社なり、学校なり、あるいは、政府に、「やれ」と強制されたら、絶対にやらないのである。
普通は、念仏でも坐禅でも祝詞でも、誰か、あるいは、何かに、強制的にやらされることはないが、腕振り運動はもっとそう(強制されない)だろう。
そこが良いのである。
つまり、自主的にしかやれないところが良いのだ。
自主的には、ほとんど何もやったことがない者が多い。
自主的にやらなければやらないほど、何もしたくなくなって引きこもりになるのだ。

古いイタリア映画『愛のほほえみ』で、10歳くらいの可愛い少女オルガが、タバコを手に、「火をお持ちでないかしら?」と言う場面がある。
そしてオルガは、「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部やりたいの」と言う。
これほど痛快な場面はない。
ああ・・・この話に下らない突っ込みを入れる者は馬鹿だ。
丁度、人種差別について考えている白人の少年が白人の父親に、「父さんが明日の朝、起きたら黒人になっていたらどうする?」と尋ねたら、父親が、「肌の色が変わるわけがないだろ」と答えるようなものだ。まあ、最近、こんな馬鹿が増えているのだが・・・
ああ・・・なぜ馬鹿か分からなければすまない。しかし、「すまない」で終わりだ。

また、高慢に、あるいは、欲深に、「腕振り運動をやったら、どんな良いことがあるんだい?」と聞かれたら、「何もないよ。無駄な努力をしているだけさ」と答える。
まあ、実際にそうなのだ。
自主的に無駄な努力をする者が真に貴いものを手に入れるのだが、そんなことを愚か者に言っても豚に真珠である。

手塚治虫さんの漫画作品『アポロの歌』の中で、こんな場面がある。
1人の少年がランニングをしていたら、ある男が親切そうに近付いてきて、マラソンのトレーニングなら、もっとこういうふうにやるべきだなどと話し始める。
だが、少年は、「やることがないから走っているだけだ」と言って、全く相手にしない。
確か、この少年も、走るきっかけとしては、何か強制的なものがあったかもしれないが、そんなことは無視している。
よって、この少年は、生まれて初めて、貴いことをしているのである。
腕振り運動にも、そういうところがあって、「やることがないからやっている」とも言えるし、「下らないことをしなくて済むからやっている」とも言える。
そして、案外に、価値ある仕事で忙しい人ほど、そう言うのである。

私は、盛鶴延さんの『気功革命』は、随分前に買ったのだが、この中で説明されている2つの腕振り運動の中の「甩手1」としている、前に腕を振るやり方にはまったのは、つい最近である。
これも、関英男博士方式の腕振り運動1万回を毎日欠かさず続けたから起こったことだろう。








  
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