「どれほど強く願ったものも、得てしまえば、さほどではない」
アメリカのSFテレビドラマ『スター・トレック』で、人類を超える優秀な男ミスター・スポックがそう言った時、私は完全に同意した。
ではなぜ、どれほど良いことも、叶ってしまえば、それほどうれしくないし、やがて、全く愉快でなくなるのはなぜか?
言うまでもなく、得る前に思っていたほどの値打ちがないからだ。
上の、ミスター・スポックの言葉は、欲しい女を得た男に言ったのだが、特に若い時は、一人の人を好きになると、その人が世界で一番の女、あるいは男に見え、かけがえのない存在と思ってしまう。
しかし、事実は、その女(男)と同等以上の女(男)はいくらでもいるのだから、「今回駄目だったら、次いこう」で何の問題もないのに、なぜかそれが分からない。
ある程度、ものが分かってくると、そこまでは分かるかもしれないが、自分の子供となると、「何より大切なかけがえのないもの」と思ってしまう。しかし、子供の方は、親のことを1/10もそう思っていないことを知り、ショックを受けたりする。
また、「かけがえのない大事な息子」と言って、いつまでも息子にべったりの母親など、息子にとって、迷惑、いや、災厄以外の何物でもない。

金メダルなんてのも、得た者は「これは物凄く良いものなのだ」と思い込み(あるいは思いたがり)、嬉しいふうを装うが、実のところは、本人は詐欺にでもあった気がしているのだ。しかし、やはり、取った者は、「そんなことはない」と自分で必死に打ち消すのだ。

この世の一切のものに、それほどの値打ちはない。
では、本当に値打ちのあるものは何か?
イエス・キリストは、聖霊、命、そして、天国に行くことなどを挙げている。
釈迦は悟りを開くことだと言い、荘子は「道(タオ)」だと言い、ゲーテは人格だと言った。
だが、言うまでもなく、これらは皆、抽象的で、言葉で言うのは難しいのである。
だが、それを得られるかどうかはともかく、それが何か分からないといけない。
でないと、いつまでも、目の前の男や女(人の夫や人の妻ってこともある)、富、名声に心を奪われる。
本当に重要なものが分かれば分かるほど、この世のものへの執着がなくなる。

宗教家等が「執着を捨てよ」なんて言うのは、無茶苦茶なのである。
本当に大事なことが何か分からないまま、執着を捨てられるはずがない。
そして、そんな馬鹿を言う者は、自分は、本当に大事なものが何かを知らないのだ。

では、どうすれば、本当に大切なものが何か知ることが出来るのか?
そりゃ、毎日、延々と念仏を唱えたり、マントラ(真言)や神の名を(やはり延々と)唱えたり、長時間、坐禅を組んだりである(笑)。
ゲーテは『ファウスト』で、それ(真に大切なものは何か知ること)について長々書いたが、あれはあくまで「売れる劇」であり、指南書ではない。
しかし、私は、毎日、一万回近い腕振り運動をして、ちょっとずつ分かってきたのである。
さっき述べたように、別に、腕振り運動でなくても、念仏でもお経でも祝詞でも、延々繰り返すものなら何でも良いが、私の場合、身体を動かす楽なものでないと駄目だ。きっと、大抵の人はそうだと思う。

世の中に、天才と呼ばれる人がいるが、そのほとんどは偽物だ。しかし、たまには本物だっている。
では、本物の天才と偽物の天才の違いは何かというと、やっぱり、本物の天才は、本当に大事なものが何かを、かなり明確に知っているのだ。
理屈で分かっているのではなく、しっかり感じているのである。
そうであれば、IQ(知能指数)がいくらかなど、全く関係がない。
私も、ちょっとは分かってきたので、本物の天才を見分けることが出来る。
いずれは、天才になるかもしれない(笑)。

昨日の私の腕振り運動の回数は1万回だった。








  
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