無になるとは、言い換えれば、「無我」「忘我」「没我」の状態になることと言えるが、どれも同じことだ。
つまり、我(われ)がない、我を忘却した、我が没した状態で、個人的な心がないことだ。
そして、無になれば、天才だし、幸運がやって来るし、超能力者だし・・・まあ、神様みたいなものかもしれない。
だが、無になるためには、長い厳しい修行が必要だ。

ところが、実を言えば、一瞬、無になるだけなら、簡単に出来る。
そして、一瞬であろが、神様なのだから、その力は計り知れない。
では、どうすれば、一瞬、無になれるのかというと、単に、息を吸って止めれば良い。
息を吸って止めれば、よほど無理に何かを考えようとしない限り、何も考えていないことが分かると思う。
つまり、それで無になっているのである。
その一瞬、心配事は消えているし、欲望もないし、誰かを恨むこともない。
適度に吸って止めれば良いが、万一うまくいかないなら、多めに息を吸えば良い。

息を吸って止めれば、無であり、それは即ち、神なのだから、全て思うがままになる。
「いや、思うがままって、思ったら無じゃないじゃない?」
と思うかもしれないが、そうではない。
自我の思いはないが、神の思いがあるのである。
たとえば、「富」という言葉を心で言えば、必要なお金がやってくる。
全ては神の意思で起こるのだから、別に不思議なことでも浅ましいことでもない。
ただし、願いを表す言葉が言えるのは一瞬だけだ。
とはいえ、流れ星が流れる時間よりはずっと長く、「富」とか「成功」とか、「富、成功」と言う時間はちゃんとあるし、3回くらい言えるかもしれない。
全ての願いに対して、「成った」と言っても良いのである(と言うより、これが良いかもしれない)。
息を吐いたら、神の思いを自我の思いで穢さぬよう、直後は忘れる・・・つまり、願いについて考えないことだ。
そのためには、息を吐く時、細く長く吐くと良い。息を吐いている間は、自我が帰って来ないからだ。
とはいえ、絶対にそうしなくてはならないわけではなく、息を吐いて、しばらく忘れれば良いのである。

何度か言ったが、例えば、前世での業による宿命みたいなものを背負っていると、なかなか願いは実現しない。
その場合、真言、念仏、神仏の名、お経、祝詞、祓詞などを、悪業が消える、あるいは、弱くなるまで唱えると良い。








  
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