私は、武士道というものが好きではなかった。
武士道と言えば、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』(原文は英語)と、江戸中期の書物『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名と思う。
新渡戸が『武士道』をニューヨークで出版したきっかけは、アメリカに留学していた時、アメリカ人の女性に、「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問われて困り、それなら、日本には宗教の代わりに武士道があるとして、この武士道を紹介するために英語で書いたのだったと思う。
しかし、そこに書かれているのは、日本人も知らない、高邁・難解な哲学や思想だった。
特に、新渡戸のというのではなく、『葉隠』も合わせ、武士道とは何だろう?
私は、最近まで、武士道とは、「武士の言い訳」程度に考えていた。
どういうことかというと、こういうことだ。
武士は特権階級で、働かなくても食べていける。
だが、戦争になった時には、領民を護るために命をかけて戦うのであるから、それも当然と言えた。
しかし、徳川の世になり、戦争など起こらなくなった。
だが、それでも、武士は働かず、のうのうと特権を謳歌している。
武士にも頭が付いている者がいたらしく、生まれながらの特権で遊んで暮らせることに後ろめたさを感じる者もいたようだ。
そこで、「せめて立派な、お手本になる人間になろう」と思って、「立派な人間とはこうである」という暇なことを考える人がいたが、その中にはなかなか頭の良い人もいて、そんな武士により、それなりに立派な武士道というものが出来上がったのだろう。その代表的なものが『葉隠』で、これは、佐賀藩士の山本常朝(やまもとつねとも)が口述したものである。
私は、「遊んで暮らせることが後ろめたいなら働けよ」と思い、あくまで特権を手放さない言い訳として考えられた武士道に批判的だった。
ところが、現代人には、武士のように、働かない者が増えてきた。
サラリーマンの多くは、毎日出勤していながら、大して働いていないし、中には、実質、ほとんど働いていない者もいる。
その代表が私だった。
確かに、良い会社とは、社員が働かなくても儲かる仕組みが出来た会社である。
しかし、その仕組みとは、賃金の安い工場労働者など、福沢諭吉の言う簡単な仕事とされる「力役(りきえき。肉体労働者)」に負っている。
さらに、ほとんど意識されないが、途上国の、子供を含めた貧しい人々の厳しい労働に、大いに依存しているのである。
我々が食べる美味しいチョコレートのために、貧しい国では、子供達が買われて親から離され、過酷な労働を強いられ、危険な仕事も多く、それで指を切断してしまっても、医者に診てもらえないなど普通である。
そういったことから考えると、特に、大手企業のサラリーマンや公務員等は、たまたま豊かな家に生まれたおかげで、良い大学を出て、楽に高い給料をもらっているのだから、武士と変わらない。
けれども、かつての武士のように、後ろめたさなどは持たず、もっと金や地位が欲しいという欲望だけで生きている。
だから、「立派な人間になろう」なんて考えは全くなく、そんなことを言ったら、「それ、何の役に立つの?」「コスパ、悪くね?」と言われることになるだろう。
たとえ、後ろめたさを感じても、自ら肉体労働者になることも出来ないのだから、せめて立派な人間になろうという、かつての一部の武士の心意気は良かったなあと思うのである。
自己啓発本を読むのは、かつての武士に匹敵するような身分の人が多いのだと思う。
ただし、立派な人になろうと思って自己啓発本を読むのではなく、引き寄せの法則などで、自分が豊かで幸せになるために読んでいる場合がほとんどと思う。
ところが、個人的な欲望のために自己啓発本を読んでも、成果が出ず、引き寄せも起こらない。
そして、気付くのである。
自己啓発本自体は、立派なものが多いが、それを読んで成果を出せるのは、「立派な人間」だけなのである。
それは事実である。
程度の低い人間が、いくら立派な自己啓発本や引き寄せの方法が書かれた本を読んでも、全く何も得られない。
もちろん、聖人君子になれと言うのではなく、どんな人間にも欠点はある。
しかし、自分に恥じないだけの立派な人間になろうと思わない限り、天や神や宇宙や潜在意識は味方をしてくれないことは確実である。
これには反発したい向きもあろうが、短期的にはともかく、その者の長期に渡る状況が示してくれているはずである。
武士道と言えば、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』(原文は英語)と、江戸中期の書物『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名と思う。
新渡戸が『武士道』をニューヨークで出版したきっかけは、アメリカに留学していた時、アメリカ人の女性に、「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問われて困り、それなら、日本には宗教の代わりに武士道があるとして、この武士道を紹介するために英語で書いたのだったと思う。
しかし、そこに書かれているのは、日本人も知らない、高邁・難解な哲学や思想だった。
特に、新渡戸のというのではなく、『葉隠』も合わせ、武士道とは何だろう?
私は、最近まで、武士道とは、「武士の言い訳」程度に考えていた。
どういうことかというと、こういうことだ。
武士は特権階級で、働かなくても食べていける。
だが、戦争になった時には、領民を護るために命をかけて戦うのであるから、それも当然と言えた。
しかし、徳川の世になり、戦争など起こらなくなった。
だが、それでも、武士は働かず、のうのうと特権を謳歌している。
武士にも頭が付いている者がいたらしく、生まれながらの特権で遊んで暮らせることに後ろめたさを感じる者もいたようだ。
そこで、「せめて立派な、お手本になる人間になろう」と思って、「立派な人間とはこうである」という暇なことを考える人がいたが、その中にはなかなか頭の良い人もいて、そんな武士により、それなりに立派な武士道というものが出来上がったのだろう。その代表的なものが『葉隠』で、これは、佐賀藩士の山本常朝(やまもとつねとも)が口述したものである。
私は、「遊んで暮らせることが後ろめたいなら働けよ」と思い、あくまで特権を手放さない言い訳として考えられた武士道に批判的だった。
ところが、現代人には、武士のように、働かない者が増えてきた。
サラリーマンの多くは、毎日出勤していながら、大して働いていないし、中には、実質、ほとんど働いていない者もいる。
その代表が私だった。
確かに、良い会社とは、社員が働かなくても儲かる仕組みが出来た会社である。
しかし、その仕組みとは、賃金の安い工場労働者など、福沢諭吉の言う簡単な仕事とされる「力役(りきえき。肉体労働者)」に負っている。
さらに、ほとんど意識されないが、途上国の、子供を含めた貧しい人々の厳しい労働に、大いに依存しているのである。
我々が食べる美味しいチョコレートのために、貧しい国では、子供達が買われて親から離され、過酷な労働を強いられ、危険な仕事も多く、それで指を切断してしまっても、医者に診てもらえないなど普通である。
そういったことから考えると、特に、大手企業のサラリーマンや公務員等は、たまたま豊かな家に生まれたおかげで、良い大学を出て、楽に高い給料をもらっているのだから、武士と変わらない。
けれども、かつての武士のように、後ろめたさなどは持たず、もっと金や地位が欲しいという欲望だけで生きている。
だから、「立派な人間になろう」なんて考えは全くなく、そんなことを言ったら、「それ、何の役に立つの?」「コスパ、悪くね?」と言われることになるだろう。
たとえ、後ろめたさを感じても、自ら肉体労働者になることも出来ないのだから、せめて立派な人間になろうという、かつての一部の武士の心意気は良かったなあと思うのである。
自己啓発本を読むのは、かつての武士に匹敵するような身分の人が多いのだと思う。
ただし、立派な人になろうと思って自己啓発本を読むのではなく、引き寄せの法則などで、自分が豊かで幸せになるために読んでいる場合がほとんどと思う。
ところが、個人的な欲望のために自己啓発本を読んでも、成果が出ず、引き寄せも起こらない。
そして、気付くのである。
自己啓発本自体は、立派なものが多いが、それを読んで成果を出せるのは、「立派な人間」だけなのである。
それは事実である。
程度の低い人間が、いくら立派な自己啓発本や引き寄せの方法が書かれた本を読んでも、全く何も得られない。
もちろん、聖人君子になれと言うのではなく、どんな人間にも欠点はある。
しかし、自分に恥じないだけの立派な人間になろうと思わない限り、天や神や宇宙や潜在意識は味方をしてくれないことは確実である。
これには反発したい向きもあろうが、短期的にはともかく、その者の長期に渡る状況が示してくれているはずである。
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