アメリカで3年間、ベストセラーの最上位を保ったと言われる、ノーマン・ヴィンセント・ピールの著書『積極的考え方の力』の最初の章は、破滅寸前のような状況の40歳の男が、ピールに個人相談をする話で始まる。
困難に直面し、すっかり自信を失っている男に、ピールは、聖書の言葉を1つ教え、出来るだけ多く、この言葉を唱えるよう指示した。
その言葉は、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことも出来る」であった。

※ちなみに、その言葉は、1964年にダイヤモンド社から出版された翻訳では、「我を強くし給ふ者によりて凡ての事をなし得るなり」という重厚な訳になっていた。最新の翻訳では、「わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です」となっている。

それを実際に行うことで、この男はうまくいった。
この言葉は、特にキリスト教徒でなくても有効であるが、「私を強くして下さる方」は、神を指すと思われるので、無神論とは言わないまでも、普段、あまり神のことを考えない人は、やや違和感があるかもしれない。
ピールより11日だけ早く生まれたジョセフ・マーフィーは、ピールと同じ牧師であるが、聖書の価値を認めつつ、宗教に優劣をつけず、神というものは、それぞれの心の中にいるものとし、簡単に、潜在意識と神を同一視した。無論、厳密な意味でではないが、それが分かり易くて便利だからである。
人間の意識には、表に現れた思考する意識である顕在意識(けんざいいしき)と、意識は出来ないが巨大な存在である潜在意識の2つがある。
全意識の少なくとも9割は潜在意識であると言われ、この潜在意識の中に、神に匹敵する万能の力がある。
ある意味、潜在意識が神そのものである。
そして、潜在意識の力を使うことは当然の権利であり、本来、誰でも自由に使える。
だから、上記の「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来る」は、「潜在意識の力により、私はどんなことでも出来る」と言い換えられる。

では、どうすれば、潜在意識の力を使えるのかが問題と思うかもしれないが、そんなことは考えない方が良い。
丁度、どうすれば歩けるかとか、どうすれば喋れるかなど、考えなくても良いのと同じだ。
なぜ歩けるのかというと、歩けると知っているからに他ならない。
もっと正確に言えば、歩けないことを知らないからである。
それはどういう意味だろう?
例えば、あなたは、もし、脚を折ったら、歩くことが出来ない。
脚が折れたら歩けないことを知っているからだ。
ところが、トーチェ夫妻の著書『トーチェ氏の心の法則』には、ある未開の地域の人々は、脚が折れても元気に走り回るのだそうだ。彼らは、脚が折れたら走れないことを知らないからである。

あなたは単に、万能の潜在意識の力を自由に使えることを知っていれば良いのである。
あるいは、万能の潜在意識の力を使えないことを知らずにいることだ。
そのために、何かする必要はない。
せいぜい、当たり前のように、静かに、「潜在意識の力により、私はどんなことでも出来る」とか「私は潜在意識の万能の力を自在に使える」と、たまに言ってみれば良いだけである。
それらの言葉を、顔を真っ赤にして、力んで唱えるようなことはしてはならない。逆効果になるから。
それは、「地球は丸い」とか「水は低い方に流れる」というのと同じくらい、当たり前のことなのだから、穏やかに、静かに言うしかない。
誰がいまどき、顔を真っ赤にして、必死に「地球は丸いんだ」と言うだろうか?
例えば、「私は初音ミクが好きで、私は潜在意識の万能の力を自由に使える」というふうに「当たり前のこと」を並べて言えば、前者と同じくらい後者も当たり前になる。








  
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