ものごとが、うまくいく理由とうまくいかない理由とは何だろう?
うまくいかない理由はあるが、うまくいく理由はない。
当たり前にやっていれば、うまくいくが、当たり前にやっていないので、うまくいかないだけなのだ。

ところが、昔、こんな考え方を書いた本を見たことがある。
うまくいっていないものを見て、うまくいかない理由を見つけても仕方がない。うまくいく理由が分からないからだ。
だから、うまくいっているものを見て、うまくいく理由を見つけなければならない。
私は、昔、なるほどと思い、この考え方が正しいと思っていた。
例えば、小学校のあるクラスは、明るく、皆が仲良しでいじめもなく、成績が良い。
一方、別のクラスは、暗く、仲たがいが多く、いじめがあり、成績が悪い。
では、うまくいっているクラスを見ると、「朝、明るい声で挨拶をしている」ことを発見し、これがうまくいく理由だと了解する。
しかし、「朝、明るい声で挨拶をする」のは当たり前で、それをしないことが異常なのだ。
うまくいっているクラスを見ても、見つかるのは「当たり前」だけだ。
その「当たり前」のことを、さも、うまくいく秘訣のように言うことがおかしいのだ。
一方、うまくいっていないクラスには、明確にうまくいかない理由がある。
例えば、試験の成績や、運動能力の記録がビリの子に罰ゲームをやらせるとか、生徒同士を競わせるのは良いが、勝者に妙な特権を与えたりとか。
そういう、当たり前でない、異常なことを、当たり前だとするから、うまくいかないだけである。

合氣道家の藤平光一氏が、「当たり前のことを言うと氣が出る」と本に書かれていたが、「氣が出る」とは、その人間の生命力が高まることだ。
これも、「氣が出る」といった特殊な言い方ではなく「生命力が高い」という、もっと当たり前の言い方をすべきと思う。
しかし、当たり前のことを言えば、生命力が高まるのは合っている。
だから、「重みは下にある」と、当たり前のことを言えば、藤平氏的には氣が出るし、一般的には生命力が高まるのである。

最も当たり前のことは何かというと、「私は在る」ということだ。
だから、この最も当たり前のことを言えば、最も生命力が高まる。
ただ、デカルトのように「われ思う、ゆえにわれ在り」と、余計なものを付けると、生命力の高まりも半端になる。
思おうが、思うまいが、私は在る。
デカルトが「われ思う、ゆえにわれ在り」と言うから、ルドルフ・シュタイナーは、「われ思う、ゆえにわれなし、われ思わず、ゆえにわれ在り」などと言い出し、それが正しい理由を述べる。
シュタイナーの言わんとすることも分からないではないが、やはり、思う、思わないに関わらず、私は在るのが当たり前なのである。

高度な当たり前というものもある。
例えば、「神の他に何もない、ただ神だけがある」がそうだ。
普通の人には分かり難いが、真に知恵ある者には当たり前のことだ。
だが、普通の人がもう少し納得し易い当たり前の言葉を唱えるという手もある。
例えば、「神に出来ないことはない」である。

「神様の奇跡が起こる」はどうだろう?
これも、神の奇跡が起こるのは当たり前なのであるが、この言葉を何度も唱えて、この言葉が当たり前になれば、奇跡が起こるのである。
エミール・クーエの自己暗示の言葉、「全て良くなっていく」も、実は当たり前だ。
この世に現状維持はなく、発展しないなら衰退するからだ。
だから、「全て良くなる」と唱え、それが当たり前になれば、やはり全て良くなる。

「神様の奇跡が起こる」
「全て良くなる」
「神に出来ないことはない」
「私は在る」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」(自然に思える場合)
以上の言葉の1つでも良いから、なるべく多く唱えると良いし、たとえ1日1回でも唱えると良い。
私は平凡なので、正直、初めの3つが唱え易い。








  
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