問題が起こらない人生はないし、悩みがない人間もいない。
また、病気にならない人間もいない。
ステーキにでもならない限り、人間は何らかの病気になる。
人生は、問題、悩み、病気との共存のようなものだ。
だが、問題や悩みや病気は、こちらが屈服しない限り、向こうが屈服する。
『ツァラトゥストラはこう語った』でツァラトゥストラは、「偶然が横柄に訪ねてきたら、私はもっと横柄に迎える。すると、偶然はひざまずく」と言ったが、この「偶然」を、問題や悩みや病気だと言っても良いと思う。

そして、偶然を自分の意思だと考えると神に近付く。
なら、偶然もひざまずくはずだ。
ある者は、家を奪われ時、家族が殺された時、そして、自分が死ぬ時も、全て自分の意思だと見なした時、神に最も近付く歓喜を得たと言う。
ただそれは、一般的な宗教信仰者が、「全ては神の思し召し」と思って受け入れるのとは違う。
神の意思を自分の意思と見なしているのだから、自分が神なのである。
もっとも、彼は、栄華を極めた富豪だったので、現実的な願いを、もう持っていなかったのだろう。

ユングが好きだった雨乞師(あまごいし。雨を降らせることを仕事とする祈祷師)の話や、このブログでよく取り上げる、宝くじで1憶円を当てたホームレスの話で、雨乞師もホームレスも、同じことをやったのである。
何年も雨が降らない土地にやってきた雨乞師は、「ここの人々は、神の意思に沿っていない」と言った。
これは、人々は神の意思を尊重してはいたが、それを自分の意思と見なしていないという意味だ。
だから、雨乞師は、テントに3日引きこもって、自分がこんな土地に来たことも含め、一切は神の意思であると共に自分の意思であると思った。すると、4日目に雨が降った。
ここらが、普通の雨乞師と、超一流雨乞師との違いである。
「神様の奇跡が起こる」と唱え続けたホームレスは、頭ではっきりそう思ったわけではないが、自分の今の状況も、神の意思であり自分の意思だと分かったのだ。
なら、発想力貧困かもしれないが、自分でも分からないくらい微かに、大金が宝くじで当たる意思を起こしたら、それが神の意思になり、そうであれば、1憶円くらい、当たるというものだ。

ずっと「ありがたい」と唱えていると、良いことも悪いことも全て、神の意思だと思うようになる。
言い換えれば、「ありがたい」と唱えることが、神の意思に沿うことだ。
そして、それに対して、自分が「ありがたい」と肯定しているのだから、自分が神であるということが、理屈ではなく、深い心で悟る。そうなれば、自分がありがたいと思うことも起きるのである。








  
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