私は、念仏だ、マントラだ、経典だ、奇跡だ・・・などと言ってる割には理屈っぽいのである。
ここらは、私が、システムエンジニア・プログラマーということもあり、仕方がないところだ。
ところが、量子力学をそれなりに高度に修めた人が、引き寄せなどの神秘現象を量子力学的に語るのを見ると、ある部分は論理的かもしれないが、それ以外は、論理の飛躍も甚だしいことが多いのである。
例えば、電子には意思があり、人間の意思と呼応するということを、理論的、実験的に導くことは出来るかもしれない。
しかし、だからと言って、人間の願いが物質世界で実現するというのは、論理の過度な飛躍だ。
これはあくまで極端な例だが、もっと緻密に語っているように見えるものでも、誤魔化し(と言って悪ければ個人的思い込み)が非常に多いように思うのである。

神秘世界を、現代科学で完全に語ることは不可能である。
むしろ、役に立つのは、経験と直観になる。
ただ、経験というものは、自分の経験に関しても、誤解が多いのである。まして、他人に正確に伝えるのは難しい。
だが、純粋にして明晰な直観というものは確かと思う。そして、これは他人に伝えない。あくまで個人的なものである。
その個人的な、純粋で明晰な直観は正しいのである。
とはいえ、それほど純粋で明晰な直観は、容易く得られない。

関英男博士などは、神秘現象を理論家する際、大胆な仮説を立てたが、その仮説の多くは直観によるものだったと思う。
だが、関博士は、なまじ、科学的知識があるだけに、直観に曇りがあったと思う。
釈迦が、現代の科学者にすらインスピレーションを与える(つまり正しい)直観的理論を示せたのは、現代の科学を知らなかったから、直観が曇らなかったのだと思う。
また、偏見の問題もある。
相対性理論に関しては完璧な理論を示したアインシュタインは、なぜか量子力学では迷走した。
これについては、アインシュタイン自身が、「自分が持っている偏見のせいで、量子力学が正しいことを認めたがらない」と分かっていたのだから、大したものである。
そして、釈迦は、おそらく、偏見がなかったのだ。

だが、残念ながら、釈迦の教えを記したと言われる経典が、偏見だらけの人によって、翻訳され、解釈され、釈迦の教えのかなりの部分が、正しく伝わっていないのだと思う。
それで、これは正確なことではないかもしれないが、釈迦が「念仏だけが有効なものとして残る」と言ったことが、かなり確かなのだと思う。
しかし、その念仏が、いろんな人によって、歪められて伝わっている。
だから、最も良いのは、念仏の意味など誰にも聞かず、ただ、「ナムアミダブツ」と唱えれば良いということだ。
ただ、これは、「南無妙法蓮華経」でも、「南無観世音菩薩」でも同じだし、「イエス様」「マリア様」でも同じである。
本当に長い時間、念仏や、好きな神仏の名を唱えて奇跡が起きなかったことはないし、それは自分で実証出来ると思う。
どうしても理屈が気になるなら、念仏であれば、法然や親鸞の教えが書かれた本、あるいは、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん』の中の『易行品』を読み、とにかく念仏を唱えれば良いと分かれば、そこで、読んだことを全部忘れて念仏を唱えると良い。
あるいは、サイババの『ナーマスマラナ』を読み、神の名を唱えれば良いと分かったら、そこで読んだことを全部忘れて、ただ実践すると良いと思う。








  
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