「謙譲の美徳」ほど良いものはない。
しかし、「謙譲なフリ」はいくらでも見られるが、本物の謙譲を見ることは、まあ、滅多にない。
謙譲とは、謙遜のことで、遜(へりくだ)ることである。
とても偉い人が、自分は全く偉くないという態度を見せれば、誰もが、その人物を本当に偉いと感じるが、見せかけだけでそうすれば、そいつは、実は大したやつじゃないと分かってしまう。

アルベルト・アインシュタインの人格が美化されていると言われることもあるが、おそらく、彼は、本当に自分を重要人物だと思っていなかったと思う。
その意味では、彼は、大変な謙譲の美徳を持っていたわけだ。
彼のエピソードには、快いものが多い。
彼は、物理学者としての自分について、「趣味で物理学を続けてきたが、別に大したものじゃない」と手紙に書いていたことがあったらしい。
アインシュタインは、ドイツからアメリカ亡命後、プリンストン高等研究所の研究員になった。
ところで、プリンストン高等研究所に入る際の給料額の交渉の時、希望額を聞かれたアインシュタインは「500ドル」と言い、相手に、「月500?それでは少な過ぎませんか?」と言われると、アインシュタインは「いえ、年です」と言ったという話がある。
この話には、別バージョンがあり、研究所では元々、アインシュタインに年棒2万ドル(当時では超高給だ)を用意していたが、もっと高い額を希望しているかもしれないので、アインシュタインに希望額を聞いたところ、アインシュタインが「1000ドル」と言い、あまりの安さに担当者が「え?!」と驚くと、アインシュタインは慌てて「いえ、500だっていいんです」と言ったらしい。
別に、アインシュタインが、天才にありそうな、お金の計算が出来ない人だったわけではない。彼は、本当に、あまりお金を必要としていなかったのだ。
彼は、自動車を所有せず、研究所までの何キロもの道を、毎日、バスにも乗らず、歩いて通っていた。自動車通勤する職員がアインシュタインに同乗を勧めても、アインシュタインは応じたことがなかった。
また、ある母親が、中学生の娘が、近所の数学の先生に宿題を手伝ってもらっていたと知り、誰かと聞いたら、アインシュタイン博士だと聞いて卒倒しかけたというが、アインシュタインは、全く当たり前にそんなことをするのだった。
アインシュタインは、自分の頭が良いとも思っていなかった。
エレベーターの操作を妻に聞いた時、
「お前がやってくれ。私が難しいことは一切苦手だって知ってるだろ?」
と言ったという話もある。
ちなみに、彼の妻(再婚の妻)は、高校も出ていなかった。
洗濯石鹸でヒゲを剃っていた理由は、「2種類の石鹸の区別が出来ない」からだった。
与太者とも仲良くし、お金を乞われると、大らかに渡し、妻には怒られたが、アインシュタインは、別に、間違ったことをしたとは思っていなかった。「自分のものは人のもの」だったのだ。
彼が、エネルギーと質量を区別せず、重力と加速度を区別せず、時間と空間と重力をどこかごっちゃにしていたのは、まさに、自分と他を区別していない発想から来ていたように思う。

荘子が言っている。
「最も賢い人は、区別をしない」
「次に賢い人は、区別はしても、優劣をつけない」
アインシュタインは区別をしない人だったのだ。
なら、我々は、せめて、「優劣をつけない」のレベルを目指したい。
それが、「自分を偉いと思わない」ことだ。

私は、あるホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたら、奇跡が次々に起こった(1憶円が2回当たったことも含む)理由は、この言葉を唱えると、区別が消えるからだと思う。
神様の前では、人間なんて、どれも大したことはない。
いかにホームレスとはいえ、やっぱり、自分は偉いと思っている。それがなくなる。
そして、さらに延々唱えると、一切の区別が消える(これはやや複雑だが、自我が消えると共にトランス~変性意識~に入る)。
奇跡のメカニズムが分かったように思う。








  
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