「ガチャ」は、お金を入れたら、カプセル入りのオモチャが出てくる自動販売機の俗称で、出てくるオモチャは選べない。
「親ガチャ」というのは、「親は選べない」という意味で、「親ガチャに外れる」とは、「良い親から生まれなかった」ということだ。
「親ガチャ」では、「当たり」は、親が金持ちであることで、そうでなければ「外れ」だ。
つまり、「金持ちの親」が「良い親」ということになっているのである。
現代社会は、親の経済力が将来を大きく左右する・・・いや、ほぼ決まると考える者が多いからである。
まあ、それが事実なのかもしれないが。

アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』(1960イタリア・フランス)で、当時24歳の美貌盛りのドロン演じるトムは、まさに親ガチャに外れた青年だった。
ところが、その、育ちが悪く、教育もなく、結果、貧しいトムが、なぜか、大富豪の息子フィリップと仲が良かった。
だが、フィリップの周囲にいる上流階級の者達は、トムをあからさまに馬鹿にしていたし、フィリップの美しい恋人マルジュは、上流階級の娘の割には性格が良く、貧しいからといってトムを露骨に見下してはいなかったが、世渡りのためにトムが身に付けた小賢しいところは嫌っているようだった。
そして、フィリップ自身、大の仲良しとはいっても、実際は、トムを見下しているところも多分にあった。
想像力があれば分かるが、これらは、若いトムには辛い状況である。
とはいえ、フィリップの友人という立場は捨て難く、トムはなんとかうまくやっていた。

だが、トムは、フィリップを殺して資産を奪い、マルジュを騙し、完全犯罪を成立させたように見えた。
吹き替え版であるが、トムが最後に言った言葉を私は非常に印象深く憶えている。
「いい気分だよ」

今は知らない人が多くなったと思うが、淀川長治さんという有名な映画評論家がいた。
その淀川さんは、『太陽がいっぱい』を四百回以上見て、見る度に、必ず涙を流すと言っておられた。

トムの「いい気分だよ」と、淀川さんの感情移入・・・私は、親ガチャに外れた者の闇、怨念を感じて、ぞっとするが、なぜかうっとりもする。
淀川さんは、育った家自体は金持ちだったように思うが、事情は忘れたが(嫌な事情だったので私は忘れたかったのだと思う)、辛い子供時代を過ごしていたのだったと思う。これもまた、一種の、外れた親ガチャである。

だが、ほとんどの人が、程度の差はあっても、淀川さんのように感じるのだし、トムの「いい気分だよ」に共感するのだ。
つまり、ほとんどの人が、親ガチャに外れたのだ。
だから、この映画は傑作なのである。
親ガチャに当たった人と外れた人では、この映画の感じ方は全く異なり、親ガチャに当たった人には、この映画の良さが分からないに違いない。

だが、重要なことは、トムの「いい気分」は、まがい物だということだ。
とはいえ、ただの「快感」とも違う、本物と見分けが付き難い悪魔の感情だ。
どこのことわざだか知らないが、
「人間の最高の快感は、復讐が成し遂げられた時の快感である」
という言葉があり、これには、ほとんどの人が納得するのではないだろうか。
しかし、この快感は、本当の「いい気分」ではない。
トムの「いい気分」も、この快感に類したものだ。

親ガチャに外れた者も、いい気分でいれば不幸にはならない。
私は読んでいないが、淀川さんは『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』という本を書いている。
だが、この本のタイトルは、淀川さんが思っていることではなく、誰かが言った言葉の引用なのだと思う。淀川さんのことだから、映画の中のセリフや映画のタイトル、あるいは、有名な映画俳優や映画監督の言葉かもしれない。
淀川さんはきっと、こんなセリフを言う者に、憧憬とか恨みとか非難などを一緒くたにした感情を持っていたのだ。
以上のことは、私の全くの想像だが、当たっている自信がある。

くれぐれも、本当の「いい気分」でいるように。
それが我々の責任であり、そんな者に恵をもたらすのが神の責任だ。
そのためには、どうすれば良いのか?
それは、ジョセフ・マーフィーの『マーフィー世界一かんたんな自己実現法』の中で、マーフィーの講演を聞いていた1人の男が、おそらく、インスピレーションを感じて考えた言葉、
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
と唱えることだ。
この本では、この男は、なるべく口に出して唱えたと言うが、それはアメリカだという事情がある。もちろん、自分の好きなようにやれば良いが、いつも私が述べるように、「心の中で、丁寧にゆっくり」唱えると良いと思う。








  
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