私は、2度、見聞きして、「いいなあ」と心から思った言葉がある。
1度目は、ロンダ・バーンの『The Secret』のDVDの中で、作家で啓蒙家の ジャック・キャンフィールドの話の中であったものだ。
詳しいことは忘れたが、キャンフィールドは、売れない作家だった時、10万ドル(約一千万円)の紙幣か小切手を自作して、それを毎日必ず見る場所に貼り、その額を、今後1年の収入目標にした。
そうしたら、1年で、ほぼ、それと同額の収入を得た。
すると、彼の奥さんが「じゃあ、100万ドル(約一億円)ではどうかしら?」と言うので、キャンフィールドは「やってみよう!」と答えた。
そして、これも達成した。
この「やってみよう!」が非常に私の心に響いたのだ。
2度目は、最近、少し、ジョセフ・マーフィーの『マーフィー 世界一かんたんな自己実現法』を読み返したのだが、その中で、ジョセフ・マーフィーがある劇場で定例レクチャーをしている時、マーフィーが、
「何でもいいから『私は~である』と強くイメージしましょう。そうすれば、それが現実になります」
と言った時、受講者の1人の男性が、「やってみよう」とつぶやいた。
それから彼は、「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」と唱えることを習慣づけた。
それで、全てうまくいったという。
「やってみよう」というのは、「とりあえず、試してみよう」に近いニュアンスであり、決して、命懸けの決意というほどではないが、自主的に取り組もうという心構えを現わしている言葉だと思う。
自主的とは、積極的で前向きということだ。
「やってみよう」と一度でも言う者、思う者は、必ず成功するのである。
言い換えれば、「やってみよう」と言ったり、思ったりしない者は奴隷の人生を送る。
いくら勉強が出来て、いい学校を出ても、それが、「やらされた」ことで、自主的でないなら、そんなものに何の意味も価値もない。そんな者は、いくら学歴が立派でも、さっぱり充実しない人生を送るだろう。
つまり、人生で一番大切なことは自主性だ。
私が昔、最初の仕事だったセールスマンになったばかりの時、そこの会社では、その月で一番早く一千万円売ったら優勝というコンテストが行われた。
上司が、冗談だったと思うが、私に、「君もチャレンジしては?」と言うので、私は仕事の困難を知らなかったこともあり、
「やってみましょう」
と言ったのだ。
結果、ベテランセールスマン達を押しのけ、私が僅かな差で優勝した。
また、私がプログラマーになれたのも、プログラミングというものがあることを教えてもらった時に、「やってみよう」と思ったからだった。
一方、私が以前勤めていた会社にいた「まるで駄目男」とでも言うしかない男は、私が「君もプログラミングをやったら?」と言ったら、喜んで「やります」と言い、私が、「この本を読んだら?」とプログラミングの本を渡したら「読みます」と言うが、私が常に「やれ」「読め」と言い続けない限り、やらなかった。つまり、自主的でないのであり、こんな人間はプログラミングが出来るようにはならない。
彼は、人のいいなりで生きてきて、それしか出来なくなっていたので、まるで駄目男なのである。
しかし、ひとたび「やってみよう」と思えば、もう、まるで駄目男ではないのである。
ある国で、政治犯の男が逮捕され、3年に渡って投獄された。牢獄の中では、彼は、一切の発言を禁じられた。
3年後、彼は釈放された直後、「私は3年のマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言した。
だが、インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「強制された沈黙はマウナではない。マウナとは自主的なものだ」
と、それを否定した。
ラマナ・マハルシは、十代の時、自主的に約2年のマウナを行ったのである。
ところで、最近このブログで度々書いたが、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻』で、イエス・キリストが、
「これだけやれば、他は忘れて良い」
と言った行である、「神という言葉をなるべく多く使う」を読んで、私は、「やってみよう」と思ったのだ。
どなたか、御一緒に。
1度目は、ロンダ・バーンの『The Secret』のDVDの中で、作家で啓蒙家の ジャック・キャンフィールドの話の中であったものだ。
詳しいことは忘れたが、キャンフィールドは、売れない作家だった時、10万ドル(約一千万円)の紙幣か小切手を自作して、それを毎日必ず見る場所に貼り、その額を、今後1年の収入目標にした。
そうしたら、1年で、ほぼ、それと同額の収入を得た。
すると、彼の奥さんが「じゃあ、100万ドル(約一億円)ではどうかしら?」と言うので、キャンフィールドは「やってみよう!」と答えた。
そして、これも達成した。
この「やってみよう!」が非常に私の心に響いたのだ。
2度目は、最近、少し、ジョセフ・マーフィーの『マーフィー 世界一かんたんな自己実現法』を読み返したのだが、その中で、ジョセフ・マーフィーがある劇場で定例レクチャーをしている時、マーフィーが、
「何でもいいから『私は~である』と強くイメージしましょう。そうすれば、それが現実になります」
と言った時、受講者の1人の男性が、「やってみよう」とつぶやいた。
それから彼は、「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」と唱えることを習慣づけた。
それで、全てうまくいったという。
「やってみよう」というのは、「とりあえず、試してみよう」に近いニュアンスであり、決して、命懸けの決意というほどではないが、自主的に取り組もうという心構えを現わしている言葉だと思う。
自主的とは、積極的で前向きということだ。
「やってみよう」と一度でも言う者、思う者は、必ず成功するのである。
言い換えれば、「やってみよう」と言ったり、思ったりしない者は奴隷の人生を送る。
いくら勉強が出来て、いい学校を出ても、それが、「やらされた」ことで、自主的でないなら、そんなものに何の意味も価値もない。そんな者は、いくら学歴が立派でも、さっぱり充実しない人生を送るだろう。
つまり、人生で一番大切なことは自主性だ。
私が昔、最初の仕事だったセールスマンになったばかりの時、そこの会社では、その月で一番早く一千万円売ったら優勝というコンテストが行われた。
上司が、冗談だったと思うが、私に、「君もチャレンジしては?」と言うので、私は仕事の困難を知らなかったこともあり、
「やってみましょう」
と言ったのだ。
結果、ベテランセールスマン達を押しのけ、私が僅かな差で優勝した。
また、私がプログラマーになれたのも、プログラミングというものがあることを教えてもらった時に、「やってみよう」と思ったからだった。
一方、私が以前勤めていた会社にいた「まるで駄目男」とでも言うしかない男は、私が「君もプログラミングをやったら?」と言ったら、喜んで「やります」と言い、私が、「この本を読んだら?」とプログラミングの本を渡したら「読みます」と言うが、私が常に「やれ」「読め」と言い続けない限り、やらなかった。つまり、自主的でないのであり、こんな人間はプログラミングが出来るようにはならない。
彼は、人のいいなりで生きてきて、それしか出来なくなっていたので、まるで駄目男なのである。
しかし、ひとたび「やってみよう」と思えば、もう、まるで駄目男ではないのである。
ある国で、政治犯の男が逮捕され、3年に渡って投獄された。牢獄の中では、彼は、一切の発言を禁じられた。
3年後、彼は釈放された直後、「私は3年のマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言した。
だが、インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「強制された沈黙はマウナではない。マウナとは自主的なものだ」
と、それを否定した。
ラマナ・マハルシは、十代の時、自主的に約2年のマウナを行ったのである。
ところで、最近このブログで度々書いたが、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻』で、イエス・キリストが、
「これだけやれば、他は忘れて良い」
と言った行である、「神という言葉をなるべく多く使う」を読んで、私は、「やってみよう」と思ったのだ。
どなたか、御一緒に。
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いつも楽しく拝見させていただいてます。
わたしは、
天之御中主大御神
あめのみなかぬしのおおみかみ
にしたら、しっくりきました。