国定忠治(くにさだちゅうじ 1810~1851)という、実在した侠客(きょうかく。一般的にはヤクザか)がいたことをご存じの方は多いと思う。
滅法、喧嘩が強く、剣の腕前にも相当な自信があったようだ。
それで、国定忠治は、なんと、当時、日本一の剣の達人、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)当主の千葉周作に真剣勝負を挑んだ。
それでどうなったかは諸説あるが、最も知られているものでは、千葉周作は、国定忠治の腕では自分の相手にはならないと見抜き、立ち会うことはしなかったことになっている。
(立ち会ったが、千葉周作はまともには相手にならず、決着がつかなかったという話もよく知られている)

あくまで創作であるが、笹沢佐保氏の時代劇小説『木枯らし紋次郎』で、主人公の渡世人(博打打ちのヤクザ)である紋次郎(もんじろう)もまた、ヤクザとしては相当に腕が立つ。
その紋次郎が、武士の剣の達人と、何度か果たし合う巡り合わせになったことがある。
本物の達人が相手では、紋次郎と言えども、全く太刀打ち出来ない。
だが、「かなり」程度の腕の武士や浪人であれば、まともに戦っても紋次郎は勝てた。
達人クラスが相手の場合は、正面から戦っては勝てるはずがないが、紋次郎は、奇策を使って・・・卑怯と言うよりは知恵で勝ったこともあった。
確かに、紋次郎の剣は、誰かに習ったのではなく、経験と度胸が頼りの喧嘩剣法ではあるが、命を賭けた実戦で磨き抜いたものだった。しかし、それだけでは、いかに奇策を使って万に一つのチャンスに賭けても、達人相手に通用することはないだろうし、また、かなりの腕の武士に正面対決で勝てるはずがない。
何か秘密があるはずだが、あった。
紋次郎は、若い頃、木こりをやっていて、木を切り倒してそれを運ぶ中で、足腰を鍛え、そして、何と言っても、毎日、斧で、とんでもない数の薪割りをしたことが、剣を振る力の元になった。
紋次郎が38歳になって、かなり衰えが見えた時、なりゆきで、しばらくの間、毎日、薪割りをすることになったが、それでも、驚くべき腕前の薪割りであった。
毎日、長時間行うことが、名人、達人を作るのだということが、創作の時代劇とはいえ、人間を良く知っている名作家、笹沢佐保氏の筆から、はっきり読み取れるのである。

さて、このブログでは、魔法の素人の我々が、現実創造の魔法を使う方法を述べているのであるが、プロの魔法使いというものもいて、それはもう、恐ろしい力を持っている。
あの中村天風も、実は、海外で、そんな連中に接触したことがあったらしく、あまり語ることはなかったが、魔法の上位者の想像を絶した凄さはよく知っていたのだと思う。
おそらく、中村天風が超人的な大聖者と呼んだカリアッパ師をはるかに超えるような魔導師すら、実際にはいた(いる)のだと思う。
それがどんな連中かと言うと、『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、太師と呼ばれる者達について読めば、いくらか想像が出来るかもしれない。
ただし、そんな太師達は、決して、自分達が特別だとは言っておらず、彼らは、人間は本来は誰もが太師なのだと言う。
そして、太師達すら崇拝するイエス・キリストが『ヒマラヤ聖者の生活探求 第3巻』で明かした、自分のようになれる方法が「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。
こう簡単に言うと、ピンと来ないと思うが、イエスは丁寧に、ある程度の理論と共に述べているのである。
ただ、簡単に言えば、それはやはり、「神」という言葉を、心の中や言葉で、何度も言うことである。おそらく、「神」という言葉を含む聖句や、それに準じる句、アファーメーションなどが有効なのだと思う。
その中でも、『ヒマラヤ聖者の生活探求 第5巻』に書かれた、F.L.ローソンが言った「神の他には何もない、ただ神だけがある」は、最上の言葉の1つと思う。
聖書には、
「心を鎮め、自分が神であると知れ」
「もし神が味方であるなら、誰が我々に敵し得ようか」
「もし出来ればと言うのか?神に出来ないことはない」
など、多くの「神」を含む句があり、世界的に有名で高価な自己開発教材でも採用されているのを見たことがある。
若き日の紋次郎が、毎日、薪割りに励んだように、我々もイエスの方法に励めば、超人魔導師に及ぶかどうかは分からないが、かなりの魔法の力を得られるだろう。








  
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