神仏の名を真言として唱えると、一切の問題が解決し救われることは、私は原理のようなものが理解出来たので(理屈でさえ)、自信を持ってお勧め出来る。
もちろん、念仏もこれに含まれる。
一方、般若心経の呪文や、大祓祝詞(おおはらえのことば)のような祝詞(のりと)、あるいは、「トホカミエミタメ」のような祓詞(はらえのことば)や「アジマリカン」のような呪文に関しては、私にも分からない部分が割とある。
神仏の名を唱えることに関しては、誰がやっても確実に効果がある。
だが、祝詞や呪文に関しては、ある程度、唱える人に条件が問われるかもしれないと思う。
例えば、伝説によれば、観世音菩薩が玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に般若心経の呪文(あるいは般若心経そのもの)を教えたが、それは、2人が別れる時であり、玄奘三蔵が条件に適ったから、観世音菩薩はそれを教えたのだと思える。
また、大祓祝詞や「トホカミエミタメ」、あるいは、「アジマリカン」を唱えるのは天皇陛下であり、普通の人に公開しなかったのは、やはり、唱える者に条件があるのかもしれない。
それで、我々のような普通の人はまず、神仏の名を唱えたり、念仏を唱えることが勧められる。
何より、これだと、確実に利益があるからだ。
仏教の真言についても少し述べる。
仏の真言を唱えることは、真言密教から来ているが、真言密教には、かなり厳しい修行体系がある。
つまり、十分な成果を得るには、修行が必要かもしれない。
一方、神の名を唱えることは、ヒンズー教ではナーマスマラナと言い、仏教では、釈迦以来の天才と言われた龍樹が、阿弥陀仏などの仏の名を唱えることを教え、それが後に念仏になったのである。
そして、実を言えば、ナーマスマラナのような、神の名を唱える行は世界中のあらゆる宗教にあるが、どういうわけか、あまり表立って教えられない。特に、キリスト教ではそうだ。
その理由は、おそらく、支配者が宗教を利用して人民を思想統制するためには都合の良い教えではないからだが(理由は今回は省略する)、逆に言えば、我々が支配者と縁を切り、利益を受けるためには最上のやり方なのだ。
そして、重要なことは、ナーマスマラナも念仏も、玄奘三蔵や天皇といった特別な人間のためのものではなく、我々のような、どうしようもない駄目な人間のためのものであることだ。
それなら、まずは、神仏の名を唱えるのが賢いやり方であると思う。
もっとも、私自身は、ずっと、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でうまくいってきたので、真言の力も十分に感じているが、それは、この真言が阿弥陀如来の真言であることを認識していたからだろう。まあ、普通そうだろうし、また、真言自体の言霊の力もあるので、やはり威力は強いと思う。
だが、まずは、「南無阿弥陀仏」と念仏を上げると良いかもしれない。
ただし、私の場合「阿弥陀仏」とのみ唱える。
単に、「南無阿弥陀仏」は、葬式臭くて嫌なだけだが(笑)。
それに、龍樹の『十住毘婆沙論』や、『浄土三部経』でも、やはり、阿弥陀仏の名を唱えよと書かれているのである。
とはいえ、「南無阿弥陀仏」自体が、1つの名号なのであり、本当は、これが一番良いのだと思う。
また、神仏の名を唱えることと、真言や呪文を併用するのが、より高い効果を生むと思う。
真言だけで凄い成果を得ようとしたら真言密教の厳しい修行が必要だが、念仏やナーマスマラナの補助(と言っては何だが)としてやると、効果を高めてくれるのではないかと思う。
神仏の名を唱えると、なぜ問題が解決し救われるのかというと、14世紀のインドの聖者ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の短い聖典『聖なる名前の哲学』に書かれた、神の名と神が等しいという真理によるが、理解するのは、少し難しいかもしれない。
しかし、名と実体が等しいように、神の名と神が等しいことが直観的に分かれば、神仏の名が何より重要であることが分かるだろう。
すぐには分からなくても、いろいろな真理を学んでいるうちに、やがて分かると思う。
だが、別に、分からなくても、神仏の名を真言として唱えれば確実に効果があるのであるから、それをすれば良く、恵を享受すれば、やがて、確信が理解になるだろう。
もちろん、念仏もこれに含まれる。
一方、般若心経の呪文や、大祓祝詞(おおはらえのことば)のような祝詞(のりと)、あるいは、「トホカミエミタメ」のような祓詞(はらえのことば)や「アジマリカン」のような呪文に関しては、私にも分からない部分が割とある。
神仏の名を唱えることに関しては、誰がやっても確実に効果がある。
だが、祝詞や呪文に関しては、ある程度、唱える人に条件が問われるかもしれないと思う。
例えば、伝説によれば、観世音菩薩が玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)に般若心経の呪文(あるいは般若心経そのもの)を教えたが、それは、2人が別れる時であり、玄奘三蔵が条件に適ったから、観世音菩薩はそれを教えたのだと思える。
また、大祓祝詞や「トホカミエミタメ」、あるいは、「アジマリカン」を唱えるのは天皇陛下であり、普通の人に公開しなかったのは、やはり、唱える者に条件があるのかもしれない。
それで、我々のような普通の人はまず、神仏の名を唱えたり、念仏を唱えることが勧められる。
何より、これだと、確実に利益があるからだ。
仏教の真言についても少し述べる。
仏の真言を唱えることは、真言密教から来ているが、真言密教には、かなり厳しい修行体系がある。
つまり、十分な成果を得るには、修行が必要かもしれない。
一方、神の名を唱えることは、ヒンズー教ではナーマスマラナと言い、仏教では、釈迦以来の天才と言われた龍樹が、阿弥陀仏などの仏の名を唱えることを教え、それが後に念仏になったのである。
そして、実を言えば、ナーマスマラナのような、神の名を唱える行は世界中のあらゆる宗教にあるが、どういうわけか、あまり表立って教えられない。特に、キリスト教ではそうだ。
その理由は、おそらく、支配者が宗教を利用して人民を思想統制するためには都合の良い教えではないからだが(理由は今回は省略する)、逆に言えば、我々が支配者と縁を切り、利益を受けるためには最上のやり方なのだ。
そして、重要なことは、ナーマスマラナも念仏も、玄奘三蔵や天皇といった特別な人間のためのものではなく、我々のような、どうしようもない駄目な人間のためのものであることだ。
それなら、まずは、神仏の名を唱えるのが賢いやり方であると思う。
もっとも、私自身は、ずっと、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」でうまくいってきたので、真言の力も十分に感じているが、それは、この真言が阿弥陀如来の真言であることを認識していたからだろう。まあ、普通そうだろうし、また、真言自体の言霊の力もあるので、やはり威力は強いと思う。
だが、まずは、「南無阿弥陀仏」と念仏を上げると良いかもしれない。
ただし、私の場合「阿弥陀仏」とのみ唱える。
単に、「南無阿弥陀仏」は、葬式臭くて嫌なだけだが(笑)。
それに、龍樹の『十住毘婆沙論』や、『浄土三部経』でも、やはり、阿弥陀仏の名を唱えよと書かれているのである。
とはいえ、「南無阿弥陀仏」自体が、1つの名号なのであり、本当は、これが一番良いのだと思う。
また、神仏の名を唱えることと、真言や呪文を併用するのが、より高い効果を生むと思う。
真言だけで凄い成果を得ようとしたら真言密教の厳しい修行が必要だが、念仏やナーマスマラナの補助(と言っては何だが)としてやると、効果を高めてくれるのではないかと思う。
神仏の名を唱えると、なぜ問題が解決し救われるのかというと、14世紀のインドの聖者ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の短い聖典『聖なる名前の哲学』に書かれた、神の名と神が等しいという真理によるが、理解するのは、少し難しいかもしれない。
しかし、名と実体が等しいように、神の名と神が等しいことが直観的に分かれば、神仏の名が何より重要であることが分かるだろう。
すぐには分からなくても、いろいろな真理を学んでいるうちに、やがて分かると思う。
だが、別に、分からなくても、神仏の名を真言として唱えれば確実に効果があるのであるから、それをすれば良く、恵を享受すれば、やがて、確信が理解になるだろう。
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