「名は体を表す」と言う。
これは、「名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだ」という意味だ。
私は、子供の時から、人の名前を見るたび、本当にそうだと思ったものだった。
表面的には、名があまりその人物を表していないように思えても、内面的には、よく合っているのではないかと思えた。
西洋人が、名前を沢山持つのも、昔の人は、偉大な人物の名を持てば、その人物に似ることを知っていたからだ。
芸名やペン・ネームが、本名と同等かそれ以上に重要になることもある。

そして、実は、「名は体を表す」どころではなく、「名は実体そのもの」なのだ。
名前とは、それほど重要なものである。
親は子に名前を付ける時、どんな人になって欲しいかの願いを名に込める。それは、とても正しいことであり、名は慎重に付けないといけない。
間違っても、浅はかな考えで名前を付けてはならないのである。

『涼宮ハルヒ』シリーズの小説のどこかで、あの長門有希が、ハルヒに命じられてだろうが、文学のようなものを書いたことがある。
「自分は幽霊だったが、名前が付けられたので幽霊でなくなった」といったことが書かれていたが、実に意味深く、名前がなければ本当に幽霊だ。
しかし、長門有希には有希という名がつけられ、有希は雪に通じることもあり、雪のように希薄だが、希(まれ)な存在になったのである。
ちなみに、「ハルヒ」は、多分、「張(は)る霊(ひ)」で、膨張する生命であり、まさに、ハルヒそのものである。

もう一度言うと、名は実体だ。
試しに、好きな人の名を1日中、心で唱えてみると良い。
嫌でも、その人と近付くから。
なぜなら、それほど名を唱えていれば、その人を本当に愛するようになり、それが世界を作り変えるからだ。

そして、神仏の名もまた、その神仏そのものなのである。
これは、あまりに重要なことだ。
私は、14世紀のインドの聖者ナームデーヴの『聖なる名前の哲学』という、2ページほどの聖典を繰り返し読んで、それが分かった。
それは、ヒンズー教、仏教、キリスト教にも通じることがはっきり分かるし、おそらくは、ユダヤ教やイスラム教も同じなのだ。
キリスト教では、なぜか神の名である「ヤハウェ」を隠すようになったが、イエスの名を知っていれば良いのだろうと思う。

もし、観世音菩薩に傍に居て欲しいなら、「観世音菩薩」(あるいは「南無観世音菩薩」)と唱えれば良いだけだ。
イエスに隣に居て欲しいなら、「イエス」(「主イエス」「主イエス・キリスト」でも良い)と唱えれば良い。
国や言語によって、名前の発音は違うかもしれないが、それは問題ない。
「イエス」は、元々「イェーシュア」のような感じだったが、英語では「ジーザス」だし、日本でも「イエズス」と呼ぶ宗派があるが、どれでも好きな名で呼ぶと良い。
どの名も、ちゃんとイエスの名である。
丁寧に唱えることさえ出来ればね。
ナームデーヴは、神の名を唱えれば、自分が神のところに行かなくても、神の方が来てくれると言った。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、まさに、阿弥陀仏の手の内にいるのである。
「阿弥陀」「阿弥陀仏」と呼んでも同じである。
もちろん、1度や2度唱えただだけでは不十分かもしれない。
普通の人間では、数多く唱えないと、心の中に名前が確立しないかもしれないからだ。
しかし、たゆまず唱えれば、間違いなく、神仏は来てくれるだろう。

聖書の詩篇91で、神は、「彼は私の名を知っているから、彼を高く上げる」と言っている。
『観無量寿経』でも、釈迦は最後に、ただ、「阿弥陀仏の名を覚えていよ」と言ったのだ。
その名を心で唱えれば、神仏はその者と共にいて、全てを取り計らってくれる。
ナームデーヴが弟子にまでなった、牛糞を作る労働者であったサックバーイーは、「誰にとっても一番大切なものは神の名である」と断言した。
それで、この偉大な聖者ナームデーヴはサックバーイーの弟子になったのである。
※ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)の『聖なる名前の哲学』は、『あるがままに ― ラマナ・マハルシの教え』および『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』に収録されている。
あまりに貴重なので、私は、これを4枚の画像にし、スマートフォンでいつも見れるようにしようと思っている。ラマナ・マハルシは自ら書き写し、生涯、手元に置いていたという。








  
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