「地球」と言おうと、「アース」と言おうと、「テラ(ラテン語・イタリア語)」と言おうと、あるいは、「ティエラ(スペイン語)」と言おうと、これらの言葉は、共通の波動、雰囲気、オーラを持つ。
そして、「地球」という名(「アース」や「テラ」なども同じ)と地球は等しく、「地球」という名前を思っていると、地球が応えてくれる。
アメリカ先住民(インディアン)は、そんなことをよく知っていて、例えば、「木」とか「鳥」、あるいは、「風」という言葉を思うことで、木の自然霊や鳥の総体の魂からメッセージを受けることが出来たのである。
名前は、物質と霊を含む、そのものの実体である。
昔から、流行り歌で、「好きなあの人の名をそっと呼んでみた」・・・なんて歌うものがよくあるが、それは伊達ではなく、相手に想いを伝える方法なのだ。
名前は実体であるからだ。
レイという名はレイという名の人間の実体で、アスカという名は、アスカという人間の実体だ。
そして、人間の意思は、電子などの素粒子と交信することが科学的に分かっているし、素粒子同士が無限の速さで交信することも分かっている。
つまり、人間が何かを思うと、それは、素粒子を通し、宇宙の果てまで一瞬で到達する可能性がある。
だから、何かの名前を想うと、その名前が宇宙の果てまで響くのである。
すると、宇宙から応答がある。
ものは試しに、好きな人の名を真摯にずっと唱えると、やがて、その人はあなたのものになることが分かるだろう。
そして、沢山の人が想った神仏の名が宇宙に満ちている。
愚か者が愚かな想いで放った神仏の名はほとんどなく、あっても、たちまち浄化される。
なぜなら、聖人(生者も死者もいる)や天使や高度な宇宙生命体が想った神仏の名の方がずっと多いからだが、別の理由もある(難しいので今回は取り上げない)。
神仏の名は、例えば、「阿弥陀」と言おうが「阿弥陀仏」と言おうが「無量寿光仏」と言おうが「アミターバ(サンスクリット語の阿弥陀仏)」と言おうが、あるいは、その他の言語や言い方で言おうが、スーパーコンピューターの数兆の数兆倍どころではない性能の宇宙の情報システムにより、瞬時、そして、柔軟に調整され、同じ名前として扱われるのである。
だから、あなたが「阿弥陀」と心で唱えれば、即座に、無限大の阿弥陀仏が、あなたと共にある。
それは、天照大神だろうが、観世音菩薩だろうが変わらない。
神仏の名を唱えることには、それほどの力がある。
『観無量寿経』で、観世音菩薩の名を聞くだけで大きな恵があると述べられているが、それほど、宇宙に存在する観世音菩薩の名が大きいのである。まして、唱えれば、はるかに大きな恵がある。
だが、神仏の名の力を実感出来ないとしたら、それは単に、あなたが、変化を認識していないだけで、とっくに霊的次元の状況は変わっている。
しかし、物質世界は、あなたの心が創っている。
だから、心を説得し、霊的世界の状態を物質世界に反映するために、根気強く、神仏の名を繰り返し唱えるのである。
最高の真言は、神仏の名である理由は、以上のようである。
しかし、理解出来なくても問題はない。
ただ、神仏の名を心で繰り返し唱えれば良いのである。
14世紀のインドの偉大な聖者ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)は、そんなことを知っていたのだと思う。だが、実践をしていなかった。
しかし、ナームデーヴは、牛糞を固める仕事をする卑しい労働者であるサックバーイーが、クリシュナの名を唱え、奇跡を起こすのを見て、この大聖者がサックバーイーの弟子になり、それから、ナームデーヴは神の名を唱えるようになった。
ナームデーヴが、神の名の真理を2ページほどにまとめた『聖なる名前の哲学』を、インドの聖者ラマナ・マハルシは生涯大事に手元に置いた。
『聖なる名前の哲学』は、『あるがままに』、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(共にナチュラルスピリット刊)に収録されている。
ところで私は昔、一部上場企業の入社試験を受けた時、面接で、何かの質疑応答の際、その会社の常務に、「『超意識の物理学入門』という本を読んだ」と言ったが、その常務は、そんな本のことを全く理解しない人だと後で分かった。
私の採用は、ほとんどの幹部が反対したらしいが、採用された。
その本の名のおかげである。
本の名も本の実体と同じなのだ。
読まずとも、本の名を唱えていれば、本と合体し、本の内容が身に付く。
私が名を挙げた本は、霊的な優れた本だったので、その名が力になったのだ。
ある著名な経営者は、若い人に読書を強く勧めていたが、「読めないならせめて持ち歩け」と言ったのは、それで本の名を覚えれば、読んだのと同じになることを感じていたからだと思う。
そして、「地球」という名(「アース」や「テラ」なども同じ)と地球は等しく、「地球」という名前を思っていると、地球が応えてくれる。
アメリカ先住民(インディアン)は、そんなことをよく知っていて、例えば、「木」とか「鳥」、あるいは、「風」という言葉を思うことで、木の自然霊や鳥の総体の魂からメッセージを受けることが出来たのである。
名前は、物質と霊を含む、そのものの実体である。
昔から、流行り歌で、「好きなあの人の名をそっと呼んでみた」・・・なんて歌うものがよくあるが、それは伊達ではなく、相手に想いを伝える方法なのだ。
名前は実体であるからだ。
レイという名はレイという名の人間の実体で、アスカという名は、アスカという人間の実体だ。
そして、人間の意思は、電子などの素粒子と交信することが科学的に分かっているし、素粒子同士が無限の速さで交信することも分かっている。
つまり、人間が何かを思うと、それは、素粒子を通し、宇宙の果てまで一瞬で到達する可能性がある。
だから、何かの名前を想うと、その名前が宇宙の果てまで響くのである。
すると、宇宙から応答がある。
ものは試しに、好きな人の名を真摯にずっと唱えると、やがて、その人はあなたのものになることが分かるだろう。
そして、沢山の人が想った神仏の名が宇宙に満ちている。
愚か者が愚かな想いで放った神仏の名はほとんどなく、あっても、たちまち浄化される。
なぜなら、聖人(生者も死者もいる)や天使や高度な宇宙生命体が想った神仏の名の方がずっと多いからだが、別の理由もある(難しいので今回は取り上げない)。
神仏の名は、例えば、「阿弥陀」と言おうが「阿弥陀仏」と言おうが「無量寿光仏」と言おうが「アミターバ(サンスクリット語の阿弥陀仏)」と言おうが、あるいは、その他の言語や言い方で言おうが、スーパーコンピューターの数兆の数兆倍どころではない性能の宇宙の情報システムにより、瞬時、そして、柔軟に調整され、同じ名前として扱われるのである。
だから、あなたが「阿弥陀」と心で唱えれば、即座に、無限大の阿弥陀仏が、あなたと共にある。
それは、天照大神だろうが、観世音菩薩だろうが変わらない。
神仏の名を唱えることには、それほどの力がある。
『観無量寿経』で、観世音菩薩の名を聞くだけで大きな恵があると述べられているが、それほど、宇宙に存在する観世音菩薩の名が大きいのである。まして、唱えれば、はるかに大きな恵がある。
だが、神仏の名の力を実感出来ないとしたら、それは単に、あなたが、変化を認識していないだけで、とっくに霊的次元の状況は変わっている。
しかし、物質世界は、あなたの心が創っている。
だから、心を説得し、霊的世界の状態を物質世界に反映するために、根気強く、神仏の名を繰り返し唱えるのである。
最高の真言は、神仏の名である理由は、以上のようである。
しかし、理解出来なくても問題はない。
ただ、神仏の名を心で繰り返し唱えれば良いのである。
14世紀のインドの偉大な聖者ナームデーヴ(ナーマデーヴァ)は、そんなことを知っていたのだと思う。だが、実践をしていなかった。
しかし、ナームデーヴは、牛糞を固める仕事をする卑しい労働者であるサックバーイーが、クリシュナの名を唱え、奇跡を起こすのを見て、この大聖者がサックバーイーの弟子になり、それから、ナームデーヴは神の名を唱えるようになった。
ナームデーヴが、神の名の真理を2ページほどにまとめた『聖なる名前の哲学』を、インドの聖者ラマナ・マハルシは生涯大事に手元に置いた。
『聖なる名前の哲学』は、『あるがままに』、『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』(共にナチュラルスピリット刊)に収録されている。
ところで私は昔、一部上場企業の入社試験を受けた時、面接で、何かの質疑応答の際、その会社の常務に、「『超意識の物理学入門』という本を読んだ」と言ったが、その常務は、そんな本のことを全く理解しない人だと後で分かった。
私の採用は、ほとんどの幹部が反対したらしいが、採用された。
その本の名のおかげである。
本の名も本の実体と同じなのだ。
読まずとも、本の名を唱えていれば、本と合体し、本の内容が身に付く。
私が名を挙げた本は、霊的な優れた本だったので、その名が力になったのだ。
ある著名な経営者は、若い人に読書を強く勧めていたが、「読めないならせめて持ち歩け」と言ったのは、それで本の名を覚えれば、読んだのと同じになることを感じていたからだと思う。
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