例えば、コンピューターのプログラマーになりたければ、暇さえあればプログラムに接することだ。
プログラムに接するとは、良いプログラムをタイプしたり、プログラミングの本を見たり、自分でプログラムを作ったりで、何でもいいから、暇さえあれば、そんなことをやることだ。
そして、暇でないといけないが、暇とは自分で作るものだ。
成功者は皆、言うのだ。「暇だったから出来た」と。
「子供が6人いたから暇でした」とか「3つの仕事をしていたから暇でした」とね。
一方、「ゲームするのが忙しくて暇がありませんでした」と言うようなやつは、何も出来ないのだ。
サッカー選手になりたければ、暇さえあればサッカーボールに触り、野球のバッターになりたいなら、暇さえあればバットを振り、剣の達人になりたいなら、暇さえあれば剣を振ることだ。
あるアメリカの人気作家は、出版社で使い走りの仕事をしていた時、暇さえあれば、ヘミングウェイやスタインベックの本を、そのままタイプしていたそうだ。

暇さえあればやるとは、どういうことかというと、片時も忘れないということだ。
古いスピリチュアルな本に、「リンゴが欲しければリンゴと合体しろ」なんて難しいことが書かれていたが、その意味は、リンゴのことを片時も忘れないということだ。
愛しい人や子供に「お前のことは片時も忘れたことはなかった」という、あれだ。

『観無量寿経』(『浄土三部経』の1つ)に、釈迦が「阿弥陀仏の名を保持せよ。そうすれば極楽浄土に行ける」と言ったのは、「阿弥陀仏の名を片時も忘れるな。そうすれば、すぐに極楽浄土が現れる(世界はお前の楽園になる)」という意味だ。
そして、阿弥陀仏の名を片時も忘れないためには、阿弥陀仏の名を常に心で唱えれば良い。
「南無阿弥陀仏」とか「阿弥陀仏」とか「阿弥陀」と、心で丁寧に唱えれば良いのである。それを「念仏」と呼んでいるのだ。
で、なぜ阿弥陀仏かと言うと、『観無量寿経』のそこまでで、釈迦は散々、「阿弥陀仏は凄いんだぞ」「阿弥陀仏は超大物だぞ」と散々褒めちぎったからで(褒め方も壮大で素晴らしかった)、阿弥陀仏の強大さがよく分ったはずだからだ。
しかし、実際のところは、どの神仏でも構わない。そんなふうに偉大さが分かってさえいれば。
『観音経』(『法華経』25章)を読めば、観世音菩薩が超凄いことが分かるので、それを読んだ上で、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」などと唱えると良いのである。

それで、最後に、超能力を獲得する方法を述べるが、同じなのである。
上で述べたこと・・・「暇さえあれば」「片時も忘れず」を徹底すれば良い。
超能力者になるなら、超能力そのものにならないうといけないし、魔法使いになるなら、魔法にならないといけない。
つまり、超能力と共にあるということで、魔法と共にあるということだ。
そして、それを具体的に言うなら、やはり、片時も忘れない・・・意識の片隅に、いつでも超能力や魔法があるということだ。
実例を述べる。
ある有名な仙道家の本に、指1本で、堅い木に五寸釘をすーっと刺してしまう怪僧の話があったが、これは、指の丈夫さや筋力でやっているのではなく、一種の超能力でやっているのだ。
その力を得る方法はこうだ。
その怪僧は、伝統的な修行はほとんどしなかったが、瞑想中に、自分が寺の裏にある巨岩を持ち上げる場面を想像し、ある日、それが出来そうな気がしてやってみたら、本当に出来た(ボディービルで鍛えたわけではない)。
次は、大きな木を引き抜くことを想像したが、これも、やがて出来た。
そして、今は、山を持ち上げる想像をしているらしい。
そしてだが、この怪僧は暇なので、常に瞑想しているのだ。
つまり、あくせく修行する者は、超能力者や魔法使いになれず、究極の暇人がそういったものになれるのである。

個々のことをしなくても、念仏のように、常に真言を唱えていれば、世界をまるごと得るのだから、全てを得ることになる。
以上が、数万年前から伝わる至高の秘法を分かり易く現代的に書いたものだ。
『観無量寿経』も『聖書』も『法華経』も、この秘法を分かり易くするために脚色したものだと思う。
そして、『バガヴァッド・ギーター』が、その本格的な解説書だろう。
それで、「本を読め」と言わないラマナ・マハルシに、「時々、バガヴァッド・ギーターを読むべきか」と尋ねたら、意外にも、マハルシは「いつもが良い」と答えたのである。








  
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