神仏の名を真言として唱えれば、一切の問題が解決し救われる。
「南無阿弥陀仏」という念仏も、「阿弥陀仏に帰依する」というよりは、「南無阿弥陀仏」で1つの名(名号)であると考えた方が良い。経典や龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』には、阿弥陀如来の名を呼べと書かれているのであり、「南無阿弥陀仏」の他にも、「阿弥陀」「阿弥陀仏」と唱えても良いのである。
観世音菩薩も同様に、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」のいずれを唱えても良いし、「観音様」でも立派な真言だ。
そして、神仏の名に上下優劣はないので、自分の好きな神仏の名を選んで唱えれば良い。家の宗派などは気にしなくて良い。
(仏・菩薩の真言、「南無妙法蓮華経」の題目、般若心経の呪文なども良いが、今回は触れない)

ところで、それなら、邪神の名を唱えても効果はあるだろうか?
あるが、人類、あるいは、人類以外の存在の集合無意識の中で、邪神の名と負のエネルギーが関わっているのが普通なので、あまりお勧めは出来ない。
邪神の名を唱えれば願いが叶い易いが、失うものも大きいのである。
それに関して、次のような話がある。

1960年のスウェーデン映画『処女の泉』は、中世のスウェーデンが舞台だ。
裕福な地主テーレは、厳格なキリスト教徒で、聖書の教えに従って生きる立派な人物だった。テーレは、自分にも他人にも厳しかったが、15歳の一人娘カリンには、よくあることだが激甘だった。
この家には、インゲリという名の養女がいて、カリンよりは年長だが、若い娘だった。おそらく、身寄りのない不幸なインゲリを、信仰深いテーレが引き取ったのだろう。
だから、インゲリだって、今は不幸ではないのだが、テーレの養女になるまでは、かなり辛い少女時代を送ってきたようで、何の苦労もなく平和に生きてきたカリンを憎んでいた。
そして、インゲリは、北欧神話の主神オーディンを信仰していた。
オーディンを邪神と言っては何だが、ダークな部分も多い神で、だから、インゲリも、オーディンの名を繰り返し唱えながら、カリンを呪った。
神の名、それも、オーディンほどの大物の神であれば、力がないはずがない。
カリンは、山中で、札付きの浮浪者である3人の兄弟と出会い、兄弟の年長の2人(末っ子はまだ少年)にレイプされた上、木の棒で殴り殺される。
その一部始終をインゲリは見ていた。
テーレほど敬虔なキリスト信仰者の家族であっても、神の名で呪えば不幸は起こるのである。
まあ、このお話には、まだ後日談があり、非常に深い内容であるので、機会があれば映画を見ていただきたい(今はDVDで見るしかないが)。

邪神に限らず、神仏の名で人に害をなすことなどは願わない方が良いのは当然である。
なぜなら、「人に与えるものは、結局は自分に与えている」のだからだ。
それが本当に分かれば、施しをせずにはいられないだろう。
イエスが、「与える者は与えられる」と言った通りであり、この言葉は、教会の寄付集めの定番であるが(笑)、パム・グラウトによれば、手取り収入の1%を施せば奇跡が起こるそうだ。
神仏の名を唱えれば、名を唱えた神仏と必ず親しくなるのだから、人を呪う必要などない。
ひたすら真言を唱えれば、それで良いのである。








  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ